↓3)記稿.2022/03/22
> 多くの感情から、今その感情を選んでいるとして
> それが貴方をしあわせにしているとは限らないし
> しあわせに導くとも限らない
ではなぜ、あなたは今、その感情を選んでいるのだろうか?
それは、誰だろうと、しあわせとした感情だけを望んでいるとは限らないからだ
むしろ、臨んでしまっていると云っても良い
対峙することで得られるだろうしあわせに向かっているとした錯誤には
多くの感情を巻き込んで、より多くを手に入れられるだろうとした期待を胸に注ぎ込む
> そのような「取りあえずはチャレンジだよね」とした感覚には、注意が必要だ
‥その感情は本当に貴方のものなのか否か?
‥望んであるのか?、臨んでしまっているのか?、臨まされているのか?
‥きっかけとしては十分だろうとしても、目的と手段とタイミングは適っているのか?
そもそもからして、基本的人権の保障とて、基本的幸福の保障では無い
幸福とは、各自が追求するものであって
国家や著名人が、他人のプライベートに踏み込んでまであれこれ指図するものではない
とした意味合いになっている
だがしかし、安全保障とした言い分は、不思議と土足で踏み込んでくるのだから違憲注意なのだ
幸福感にしたって、わざわざ金を払ってでも成功談を聞こうとして夢中になっている
自分から自分流に考えることに価値が無いとでも云わんばかりの慣習には
あなたが幸福だからと云っても、社会的にはそうで無き立場もあるとした同じままがある
(肝心要たる解決能力が無いのに、其を持ち上げても何の意味もないとした視点がないままだ)
‥それらの多くを恋愛に例えるととても解りやすい
理想の結婚像、結婚相手とした共通点は大多数で類似する
だから基本的人権とした精神もまかり通るわけだが
(無論、意見の割れもある‥ゆえに、その手の押し問答は繰り返され続ける)
(他人の意見を借りてさえも繰り返されるばかりで、社会全体での幸福感は常に曖昧だ)
とくに理想の結婚相手ともなると、手に入れられるかと言ったら、競争率からして怪しい
その時、嫉妬の風を垂れ流しにしようなら、人権保障などどこ吹く風になろう
(だからといって、行き過ぎた安全保障なんざ誰も望んではいまい)
> 結果的に多くの者が得られない代替として、しきたりを持ち込んで身に付けていたりする
> 妥協したり、手にしないとした理由を自身に持ち込んで、精神維持とした安全保障と為すのだ
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