記稿.2022/04/23
すべての努力は偶然性を上回らない
且つ、すべての事象で科学の想定を上回る要素を否定しないならば
ヒトの活動の多くは自己満足の範囲であり
自己満足の保障こそを基本的人権と類推すべき内訳となる
そのような自己満足の保障程度の世界観で、「正義だ」「愛だ」と有能さを叫ぶなど不毛である
(自己満足からの多様性など、お互いに不毛ゆえに等しいばかりだろう)
> では、問おう‥運否天賦の度合いと努力の度合いとでは、どちらに比重があるだろうか?
‥私たちの日常は、宇宙に対して挑戦しているわけでは無い
至極平凡なる日常の自己を奮い立たせるためだけに挑戦があるようなものだ
それから湧き起こる日常の延長‥ヒトの勝手たる競争において
勝ち負けにおける運・不運を想起することを、運否天賦としているだけである
つまり、自己の希望の想定を跨いだ結果が付いて回ればそれで良しと言える話だ
(それの判断にしたところで、平均を上回っていれば良しとして扱われるオチ程度だろう)
‥だが、生産力以上の贅沢は成り立たない
「運否天賦だ」「努力だ」といっても、誰かの生産過剰に期待しているだけでは
運たる結果が付いて回るかどうかにしても、余剰に比例する話になる
多くの者らが、そんなサービス余剰を期待している一方で
一次産業における過不足は、とくに首を絞めるばかりの仕組みに置かれてある
それはつまり
システム的に誰かの破綻や損を期待しつつ
それのおこぼれを手中にできれば運否天賦と言い合う中身だ
(そのようなおこぼれ頂戴合戦に努力論をかざすなど、あざとさ有り有りでしかない‥)
(恋愛論に置き換えると、逸物が萎えるばかりの話だ)
> 真面目に椅子を取りに行くことを「努力しました」と言い張ろうと
> それにしたって、権限からの分配の決定権を手にする云々の話で
> どうしようもなく、決定権保持者こそ多くぶんどれるとした暗黙のお約束があるばかりだ
> (具体的にどのぐらいの比率までなら正義と呼べるかなど誰も知らん)
ただそれらの%をどのように決めるかの自己満足が保障されるのみだ‥
(但し、そこに人生の保全が伴うとは限らない)
(其もまたひっくるめて運否天賦というならその限りだ)
ひとえに努力とは一過性の目標であり、人生の全体を通した使命感ほどには無い
ゆえに、自由奔放としたヒトの多くは、その都度の自己満に明け暮れるばかりだ
ならばそのような日々は、誰かの不運に群がるばかりの人格像にしか見えてこない
(其もまたひっくるめて運否天賦として扱うなら、努力の比重など小さく見えるばかりだ)
> 翻して述べるならば
> 運否天賦を期待しなければならない社会ルールほど不毛であると定義できようか‥
> 世間一般に‥其を「格差」と呼べり