記稿.2022/04/24
> 神は死んだ
> 神は居ない
> 神など空想の産物だ
‥その手の一神教想定不満からの真偽はさておき
ここでは、宗教にありがちな
「神のおぼし召し」=「運否天賦」の及ぼす心理について考えよう
‥「神のおぼし召しのままに」
とした呪文には、二つの見方が派生する
まずは、脳内翻訳しておくと
「あなたが悪いんじゃありません、神がお決めになった事ですから、ならば開き直りましょう」
「あなたが悪いんじゃありません、神がお決めになった事ですから、ならば開き直りましょう」
「あなたが悪いんじゃありません、神がお決めになった事ですから、ならば開き直りましょう」
> 不運続きなら、神もとい運命論を嫌うように誘導しており
> 幸運続きなら、このままで良いのだとした自惚れを暗に誘っている
これが例えば、中世なら、勝ち組(貴族)は
自分たちの勝手気ままを、そのままで良いと太鼓判を押されたような話だ
当然として、不満が募れば、戦争も起きがちになる
(其は、宗教自ら、「勝てば官軍」をほのめかしてきたような話にもなる)
これが例えば、科学ありき信教の自由の時代ともなると
政治的出来レースで仕切られた世界をやらかして格差に満ちあふれようとて
これで良いのだとした背中を押されてあるようにも聞こえることだろう
(‥より良い社会へと舵取りされるわけがない)
(もはや宗教など何の意味もねぇ)
‥一方、不幸の辛酸を舐めるばかりの側にとって見れば
多神教とは違い、他にすがるべき神を選ぶことが許されないなら
「神など居ない」と叫んでみるより他なくなる
(まぁ今の時代なら大抵は信教の自由を認めてあるわけだけど‥)
(選び直すより、捨てる方に進むのがセオリーだったりする)
(他所にまで行って、ノルマやら信仰心が足りません何て言われたくねぇし)
(こうなっては、信教の自由とて何の意味もねぇ)
そこで、まじめにも努力論に齧り付こうと、格差の出来レース社会でしかないなら
自分の力で奪いとる事の正しさの方が、強調されて映るのだろう
ニュース等で、三権分立も糞もねえ‥上からして、独裁色へのお手本をやらかしていれば尚更だ
> つまり、お上の多くからして、残念なお手本しか示さないのだから
> 「汝に神のおぼし召しのあらんことを」とは、呪詛にしかなかったのである
‥ならば、大ざっぱに運否天賦を信じてみたところで同じだ
日本人の運否天賦には、神社寺社の構成都合からも
八百万の神の誰かとした期待感を込めたアバウトさ込みのところがある
それはそれで、誰と対話にあるのかなどまるで不明
どれだけ気前の良い神々都合で信仰しちまってんだよ、おい
そんな祈り程度だと、私たちの日常にしたって、課題のたらい回しになりがちさ‥
(たらい回す無能ぶりでも、良いところに勤めていれば良い人たちだと思われている)
(有能信仰だったはずが、実は、無能信仰オチだった‥)
(これが所謂、日本にありがちな集団効果ということでしょう)