記稿.2022/05/05
> さしあたって、能動的受動としておこう‥それが敬語たる大体の感覚と言えよう
> 斯様な言語体系を成し得るのは日本語だけだと思う
‥そもそも敬語を用いる事で、その段階で主体が区別されてある
そこを理解するか否かの違いが、敬語の得手不得手とも言える
‥日本語には、そのような特質があるゆえ
自ずと敬語に非ずとも、能動的受動でもあるし受動的能動にも成り得る差を見せるのだ
例えば、「召し上がる」と「頂きます」で語るなら
「召し上がる」のは、自分に対しての相手で有り
「頂く」のは、相手に対しての自分である
(但し、この時、上位に位置するのは、もてなす想定の側であって立場の差とは限らない)
双方共に「食べる」意ではあるものの、能動と受動とした性質が入れ替わるのである
> このような性質は、助詞の用い方一つでも成り立つ事ができる
例えば、助詞の「を」は、とくにそれである
・彼を信じる
・彼は信じる
‥この二つの文の意味はまったく違っている
「彼を信じる」のは、誰かであって、彼では無い(対象への客観もしくは主観)
「彼は信じる」‥それは対象にある彼自身だ(対象の主観)
・私を信じる
・私は信じる
‥「私を信じる」には二つの見方がある
私には迷いがあるもののそれでも私を信じるとした見方と(対象の主観)
誰かが私を信じているだろうとした見方だ(対象への客観)
一方で、「私は信じる」には、対象となる何かを想起させてある(対象への主観)
対象が自であるか他で有るかによって、「を」と「は」の性質は明らかに逆にもなる
(この日本語の性質を理解できていないと、日本語への翻訳は途端に怪しくなる)
> このような性質は助動詞を用いる際にも見られるわけだが
> 意識していないとそこに差があるとした見解すら覚束ない
‥丁寧且つ綺麗でわかりやすい文章に仕上げたかったらそういう話になる
‥又、言語には歴史が刻まれてあるのだから、歴史にも興味を持つべきとなる