記稿.2022/05/11
> いつしか映像社会たる私たちの脳内では、次のような反応を見せている時期がある
‥マンガに出てくるような怪獣もショッカーもお約束の悪党なんかも居るわけねぇ
‥だってマンガに出てくるようなチートなヒーローも人間も居ないのだから
‥ゆえに、陰謀論からしてすべては空想の世界での出来事だ
> ところが
‥競争に勝とうとする際に、一番に手っ取り早いのは、組みすることである
手を組み合うそもそもが利益目的なのだから
より儲かりたいと思えば、個々でより良い成績や評価を欲すれば、亀裂も派閥も派生する
‥お金が無かったりで、ぼっち主義がすぎたりすると
無駄に誰か頼みでしかなく、お花畑志向だったりするので
その手の利害関係にまったく無関心・無警戒だったりするわけだが‥
(つまり、油断をしていると、カモにされてしまうのだ)
(なぜなら、組みする側ほど、成績や利が欲しいのだから、背に腹はかえられぬ事までやりだそう)
(個人以上にそれは綿密かつ計画的だったりするわけで、消費のカモならまだしも)
(冤罪のカモにだってされかねない‥まさに悪‥)
> それはそのままに映像に出てくるような悪とした姿だろう
> では問おう、対する正義とした姿はどこから得られるのだろうか?
‥今や多くの者らの思考では
悪をのさばらせていることこそ「神の不在証明」だとしている
いやいやそうでは無い、あなた方の中に正義を振るうとした姿勢が無いだけだ
だからあなた方の多くの神は、搾取色ありありの神ならぬ契約魔人になっている
> 正義の鉄槌を下すような神を求めたなら
> まず、あなた自身から身体を駆使して鍛えるところからはじめざるを得ない
神が人々の信仰としたところの寄り集まりの力だというのなら
一人一人が抜かりなく鍛えることを宗とすべきになる
神の定義が思いこみからの信仰の類だとしたにせよ
その思いこみでさえ寄り集まれば力となってきた
其を否定していないのなら、「己から身体を鍛えるところから始めよ」と
自らに問うてあった問答を面倒くさいとばかりに脳内ですり替えて、不在証明を語っただけになる
> ‥とはいえ真面目にやろうとも、ヒトの多くが力を得ると、途端に暴走するのが実際だ
> そういう意味では正義は稀少で有り、すべてに首の回るはずも無し
‥では問おう
ヒトとしての正義の鉄槌の大元は怨みである
それはそのままに仇討ちを意味する
ならば、仇討ちは正義にあるのか否か?
‥一般に、個人的なそれには大義が無いとばかりに、犯罪対象にされがちである
されたくなければ、控訴して裁判にて勝訴する用がある
だがしかし、敗訴でさえ、覆すための権限があるのは、仇討ちを認めてあるような仕組みだ
> つまり、仇討ちは正義の扱いにあるのだった
> (殺傷沙汰を宜しくないとして扱われているというだけらしい)
‥だがしかし、大義をかざした戦争行為は
多くの者らが、正義だと錯覚してまで‥とめどめ無くやらかしても正義だったと言い張る始末だ
(まるで、不戦たる正義など存在しないかのように、裏で口を合わせて有るみたいな世界だな)
‥戦争しに来る方にしたって
避難勧告をした後でなら、そこに居るのは一般民に無く敵対する兵士として扱うことができる
とか何とかとした見解にあるのだという(なんじゃそりゃ?)
(兵士同士での戦闘なら、それは正義同士のぶつかり合いだからOKみたいな屁理屈なのだよ)
> つまり、正義ならば、死の鉄槌を下してもOKとした集団心理が底辺に潜むのだ
> もとい、派閥競争ならば正義を唱えたとしても問題視せず、だが個人ではダメとした臭さだ
‥まさに信教の自由観ありありだ
曲解すると‥信教の自由を語ることで、防衛の正義を問うてあるかのようでいて実に面白い‥
ならば、憲法九条と自衛隊の存在性に矛盾無し
(矛盾だというのなら、憲法の条文に上位下位とした論を展開せざるを得ない)
(まぁそういう約束で、今在る条文を格付け配置構成したって良いわけですね)
(‥あとはもう、防衛戦闘をどこまで可能とするかでしかなかった‥)
> 何にせよ、仇討ちこそは、防衛戦闘行為でもあるのだった
(まったく以て、忠臣蔵民族だからなあ‥THE 仇討ち王国日本‥)
(でも、米国様頼みなんだから、正義も糞もねぇ‥だって避難勧告後は使えねぇ兵士群なんだz)
(なのに不戦策として裁判力すら鍛えちゃいねぇわけでして‥まさに敗訴ポチ‥)