2022年06月24日

【詩】会社を村とするならば、会社員とは村人だろうか?それとも戦闘員だろうか?

向宜詠吟.2022/06/24


会社を村とするならば、会社員とは村人だろうか?それとも戦闘員だろうか?
兵農分離しているわけで無いとするならば、その両方だろう
昔ながらの村としてのスタイルならそういう事になる

だがしかし、株式会社ならどうだろうか?‥とくに「持ち株会社」ならどうだろうか?‥

経営陣と現場とした組み分けは、どうしたって「兵農分離」に見えてくる
ならば、現場はそれこそ戦闘員の扱いなのだろう
ならば、中央たる経営陣は大本営だ
ならば、村人はどこに居るのだろうか?

だから、銃後としての彼らの家族という事になるのだろう
だから、村人の将来とて、いつまで経ってもご奉公と出征とした空気に満ちている
のほほんとした村人暮らしなど夢のまた夢の世界になっている


(だが、昔とはちびっと異なり、選択の余地はあろう)


そんな日常に物申して与えられてあるのが
「心臓を捧げる選択の自由」と「死に所を選択できる自由」ということになっている
残念なことに‥それがゆえに‥過労死の扱いを二階級特進としてはいない
遺族への配慮を抹殺しているとも言える扱いだ
否、遺族など居ないとした想定だろうや
だから、日々地獄のような戦場‥もとい、「クビ切り」「路頭」とした葛藤の日々が押し寄せる
それはまさに‥捕虜を改めさせて自分たちの陣営の兵士として送り込む‥
将棋の駒とした空気でもある(捨て駒ならいくらでもある)
其を自ら進んで選択できる自由が許された空気でもある

それに対して、今や、会社は踏みとどまって貰うように説得する側なのだから不思議なものだ
一昔前なら、早速に軍法会議の矛先となっていた

人材に不足するとは、まさに戦場での死活問題である
村人に無く、兵士として存続できないという事なのだから
村に無く、兵団として存続できないという事なのだから
斯様な空気は、どう考えても常在戦場国家(戦国時代)としてのスタンスにしか見えてこない


私たちの多くは、そんな日常を平和と讃え、民主社会だと思い込んだままにある
それはまるで、閉舎(兵舎)な屠畜を知らずに、肉を喰らうが如き暮らしぶりの鏡似性そのものだ
(斯様な肉を安易に頬ぼってきたのだから、今や鏡似してボッチたる日常と化したのだろう)


昔に、戦争ともなれば、まず奴隷を兵としてもて囃す時勢もあった
私たちの暮らしぶりなんて、どうにもそれと同じだ
市民と奴隷とが分離していた垣根を取り払っただけで、やらされていることと言えば
なんちゃって市民とした奴隷の扱いそのものだ

其れを以て‥民主化したなどと立ち止まってある‥
競争とした価値観を元に、せざるを得ぬ事が同じなら、役割分担的にそうにならざるを得ず‥

だから、いつまで経っても、誰しもはこう思っている

我が世の平和を手にするには
経営陣に登りつめて、机の上に足を放り投げる立場を得ることだと‥
一言で言えば、奴隷を使役できる立場と言うことだ

そのような村長に‥豊かな村人暮らしとした未来なんて無いのは100%なのに
どれだけ夢見がちにあるというのだろうか‥まったく以て「地獄を得ずんば理解得ず」だよなあ‥


戦無き状態(競争たる仕組みの緩和)を望んでこそ、村人たる本懐にあろうや
ベーシックインカムを望んだとて、何ぞまずい事などありはせぬ



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:37 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする