向宜詠吟.2022/08/02
楽しいとは何だろうか?
何の気兼ね無しに甘いお菓子を食べられることだろうか?
何の気兼ね無しに甘えられることだろうか?
だが、幼少の頃に感じられたそれらにしても
大人に近づくにつれて、おぼろげだった事柄が突きつけられてハッキリとする
それらすべては、奪い合いの果ての果実だったと‥
‥陰キャなら、自分の好むところの物語に浸ることでも満足できるかも知れない
‥陽キャなら、現実として手に入れられないのなら、どうしたって我慢ならないのだろう
だが、どちらにしても
果実を得られないのなら、楽しくなれないとした病気なのだよ
それが、私たち人間とした世界の「楽しい」とした症状らしい
果たしてそれら現実は、どこまで楽しいのだろうか?
貴方は未だ、感情としての楽しいを味わおうとしているかも知れない
だが現実は違う、楽しいとした欲求には、奪い合いが付きまとう
其を選択支の多様化、選択支の淘汰などと呼び変えたとて
「楽しい」は症状の一つでしかない
(貴方が、善と悪とした概念‥もとい恐怖に囚われ続ける限り)
貴方が望んだ現実がある、それらを手に入れられることは楽しいことだろうか?
貴方が手に入れられたにせよ、手に届かなかったにせよ
貴方が望んだ現実は決して静止してはいない
静止せざる想念の揺らめきの中を、常に掻い潜ろうとしてある
望むと望まざると、勝手に勝敗を決してしまうと言っても過言ではない
すでに勝敗が決まってしまうばかりなら、敗者は常に願いが叶わない
なんという理不尽な世界だろうや‥
ならば、勝利を譲って貰うかね?
では、実際的に、どのようにお願いしてあるのだろうか?
それが可能にあらねば、貴方は楽しいとした概念を理解できずに
永遠の転生を転がるハメにだってなるのだ
それはそう、人形かロボットか使い捨てられる奴隷のように
ならば、正そう
楽しいとは、譲られるところにこそ得られる症状だったと
だがしかし、譲られてばかり居ても屈辱だとは思わないだろうか?
そうだ、幼少の頃は、譲られてばかり居ても気にならなかったそれらが
大人になるにつれて、残念な姿に映り出す
それは、譲られ方の問題ではない、敗れ方の問題なのだ
どのようにして敗れれば納得できるのか?
これは、どのようにして勝てれば納得できるかよりも、慎ましく悩ましき問題なのだよ
自在に納得できる敗れ方を提案できる
これこそが本当の意味での「楽しいの達人」なのだ
それは即ち、自分の勝ちたいどころを十分に心得ている御仁とも言えるのだ
(いやいやいや、心許せる友人が多いとした姿だろう)
ならば、正そう
貪るような楽しい願望、楽しい追究には、正義も勝利も敗北も微笑んではくれないのだと
> うた詠み終わります、ありがとうございました。