記稿.2023/01/23
> 人生とは実死訓練である
> 訓練であるならば、本質的な死滅には至らない
然れどゲームのようにリセットが利くわけでは無しに、結末はいずれ訪れる
だがしかし、実死訓練である事を理解できたなら、結末に然したる意味ぞ無し
それこそ、次の転生目標とすれば良いだけの話にならむ
> では、何の為に無理ゲーのような修行のような厳しい訓練をせざるを得ないのだろうか?
それは、宇宙が育つ為には、マインドからのエネルギーが必要だからだという
とくに感情エネルギーはそれとして用意された下りらしい
だが、私たちにとっての感情とは
集中力を高めて制御することに、パフォーマンス発揮の道がある‥そういう理解だ
感情のそれぞれを人生の調味料として捉えようとも
剥き出しのままに価値が有るようになどとは捉えていないのだ
だから、集中し得た時の感情をどのようにあるのかと問うなら
例えば、ゼロ・エネルギーと称するような感情ゼロを意味することにならむ
感情エネルギーを発電装置などと、もて囃そうと
結局の所、色の付いた感情からのゼロ転換にこそ意味があるのだ
つまり、ゼロ転換し得るマインドの確保を要求されていると言うことになろう
> 当然それは、個々の制御下に置かれるのだから、誰のモノにも成りはしない
> まさにそこにこそ、汝自身の湧きいずる力の源がそこに在らむ
ならば、私たちの多くが、幸福々々と、特定の偏った感情を推してある状態という奴は
かなり間違った幸福観だった‥燃費の悪いエネルギーの使い方だった‥
事実、結果的にも、特定感情を競うように貪る世界はマインドが怠惰になりがちだ
当然、マインドが怠惰な宇宙には、それなりのエネルギーしか蓄えられない
不老不死に至る程の情勢には成りえない
ゼロとした道に至る為にも、止め止めもなく鍛える必要が生じていたとも映ろう‥
> 否否否、私たちは其のゼロ転換を悟りなどと宣ってきたわけだが
> ゼロ転換し得る憧れを抱き挑む者ともなると、まぁ少数派だ‥
ならば、多くの者らは、偏ってある色の付いた感情をゼロ転換できなくても問題なしとした集群だ
そのような中途なままの感情は、一体全体どうなるというのだろうか?
どうもこうもない、それが格差社会とした写し絵と言うことに成る
そのような世界では、汝に湧きいずる源を誰かの為に差し出さなければならない状況を演出する
そこには、意見のそぐわぬ案に従わなければならないという妥協が付きまとおう
結果的に、集中力を欠くことになる
(もしくは、何かを捨てて集中に投資せざるを得ず‥)
それでは、いつまで経っても
ゼロ転換に至ることも無ければ、ゼロ転換の先を知ることも無い
とても狭い視野にて、努力という形を強いるばかりだろう
一方で、同意する者には、ゼロ転換が多少なりとも訪れ、できかねる者には訪れようが無い
(其を能力主義と賞賛してきたというだけの話だ)
‥何かを捨てざるを得ない事に躊躇しなかった輩の戯れだった
‥そもそもからして優しくなんかない集群だった
(其をインテリなどと呼称していただけの話だ)
> 謂わば、集中力環境の格差を発生させているのに、問うべき視界を持っちゃいない
> 斯様な意味でも、未だ私たちは、とても非効率な集群に置かれたままだ
それは、いつまで経っても短く死を迎えざるを得ない形態を選んでいるザマだ
さらに、次なる人生での目標も、ゼロ転換になど無く、数値の善し悪しとした範疇だ
(なんというザマぁだろうや)
‥ゆえに、人生を謳歌するとは
訓練生から卒業して、己の集中を発揮しうる段階を指す
ならば、訓練生のままなら、人生そのものを素晴らしいなどと決して語れる段階に無し
(歯を食いしばるよりも先に、集中し得る状況を自らに持ち込もう)
‥自分が一番に集中できうる形とは何か?
‥自分たちが一番に集中できうる関係性とは何か?
(其を問わずして、幸福なんかありゃしない、あるのは降伏感ばかりだろう)