1)改稿.2023/05/21...2023520...
> 関ヶ原での島津のモチベーションは最悪だった
> 田舎者扱いで、東軍からも西軍からも格下扱いだったのがもろバレしていた
なので、なんとなく流されるように
西軍の一角に陣取っているだけのハリボテさながらだった
そこに誰かさんの裏切りで大混乱
もはや逃げの一手になり、その逃げ出す様に真っ先にビビったのが福島正則だったという
お陰で、島津の活路がスルッと開かれてしまい
結果、
(その大怪我がもとで、1602年の3月に死没した様子‥)
(いやぁこれは滅茶苦茶に角の立つ話しですよね)
(何しろ若かったし、徳川の将来の一柱として期待されていたわけですし)
> だからだろう、福島正則は
> その後に許可を得ずにマイ城のリフォームやらかしちまったというだけで
> 即行、改易の憂き目に晒されましたとさ‥みたいな(武士の逆恨み超恐ぇ)
‥なので、東軍新参者としての福島正則としては
立身出世大好き正則としては
死んで尚、名を持ち上げて貰う方にこそ、己が生命を全賭けして注ぐべきだった
(いつもの奴ならできたはず、当時の誰もが苦々しそうにそう思ったに違いない)
(そしたら、井伊直政が島津義弘の首をあげたかも知れないz)
(徳川としたら、丸々期待通りの大金星で、後々まで加藤清正より格上待遇だったはず)
(当時、加藤清正は蟄居あずかりで、くまもと待機だった‥残念!)
> そしたら、その後の日本史も随分と変わったかも知れないと
‥誰一人帰らなかったら、そりゃ島津の怨みは、小早川秀秋ただ一人に集中するわけで
維新の薩長同盟なんか絶対に無かった
‥無かったと云えば、薩摩の江戸時代にやらかした国内鎖国すら無かったに違いない
(まぁそのぐらいに空気が変わっていただろうと思われる)
(そのぐらいに、関ヶ原空気になってから田舎者扱いが発覚したぐらいらしいからな)
(帰った者が居たからこそ国内鎖国に入ったとも言えるでしょう)
(まぁそれだけ、秀吉の薩摩評価だけは高かったという事に成りますが‥)
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