2023年06月15日

【ネタ文学】自我はなぜポンコツ程度(絶望の異世界)に造られてあったのか?

↓2)記稿.2023/06/15

> 近代哲学の始まりは「我思う、故に我あり」だった
> 其を唱えたデカルトも善悪を多少問うてはいたが、西洋哲学としてのテーマたり得なかった


 ‥当時にしても、善悪を問うのは教会の特権みたいな空気だったし
 現代に至っては、精神の存在を99%否定しつつも
 多重人格云々、個人の責任能力とした生命活動ありきな論点にすり替えるので
 ‥どこか、善悪など問うだけ無駄のような風潮を呈してある
 むしろ、争って勝ち取れと言わんばかりが、訴訟に立法だ


> 善も悪も勝つための机上での口論とした術みたいな
> 私たちの多くは、そのような人類の有り様を民主的だとして信じ切っている


 ‥善悪の寄る辺は、信教の自由ありき
 万民に正しさの共有など前提にしていないのに、法の精神とは是如何に?

 (基本的人権としたおためごかしがあるのみで、善意とて任意でしかない)

 (善意の任意では賄いきれなかったからこそ、環境問題の最悪に至った)
 (そもそもの善意の任意からして、予算ありきの票決尽くめだよ)
 (もとい投資家の言い分ありきでしかない)


 ‥それではそのままに「席は偉大なり」
 法を決める勢力、趨勢こそが正義と言わんばかりだ

 ゆえに「力こそ正義」と信じ切っているのが多数派だ

 ‥むしろそのような文化の流れで培われる善悪とは、票決の結果であって
 その票決の結果、行き詰まっているなら、思考が根底から誤っていると解釈されるべきだが
 「席は偉大なり」とした価値観が揺らぐことなど決して無い


> つまり、私たちの多くは「席は偉大なり」とした価値観こそを民主的と謳ってあるだけだ
> (このような有り様をクズと呼ぶわけだが、クズにはどうしても別の選択肢が持てないらしい)


 ‥そんなだから、私たち人類を創造した存在に対しても
 憮然とした思いを抱いて「神など居るわけがない」とした無神論にもなるのだろう

 「そのような心や念いには怨みが渦巻いてある(エゴが濃い)」

 何を始めるにも、その手の怨みから取り除いていかないと始まらないのだが
 ほどかせないようにしてあるのも、私たちでやらかし続ける席取り競争だ
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:36 | Comment(0) | ネタ文学 | 更新情報をチェックする