記稿.2023/07/30
原始としての宇宙の始まりには、右も左も上も下も無かった(つまり真我?)
だが目覚めたことで、周囲とした境目を切り取るようにエントロピーが発生し
創造ベクトルが起動した(つまり自我?)
起動した創造ベクトルが失われることなく在り続けるには
エントロピーとした不安定な磁場を誘発して、近場を巻き込むことで
創造ベクトルを保持せざるを得ない(つまり活動エネルギーの補充、互為協賛、喰らい沙汰)
だがしかし、創造ベクトルのベクトル修正には、補充エネルギーの減速等の処置が欠かせない
この時、巻き込まれたばかりの側にブレーキングを求めることは無理(諸々自我の初期段階?)
謂わば、十分に反応しきっている側にこそブレーキングとした選択の決断を迫る(諸々散華段階?)
だがしかし、主体的に自我の散華を望む者は少なく
結果的に、自我のエネルギーを吸い上げるとした方針が採用されるに至った
(強制的に真我に食われている?死滅ありき?自我の希薄性要求?)
もとい、真我に至るとは
必要に応じて創造ベクトルを調整すべき減速方針(吸い上げ)を理解することであり
同時に、降ろす・与えるとした創造を担う自覚を誘発している
もしくは、散華を蹴って
姑息に吸い上げる者らを掌の上で活用する手綱を握るべくした高度な意識感化の渦に在り
> されど、真我には、右も左も上も下も無いのだから
どちらが主体的なベクトルとしたよすがに在るかも、副次的な修正ベクトルに在るかも
その区別における主副とした判断を為るところに無し
在るのは、必要だから行うとした無情たる趣になるであろう
とはいえ、仏陀とした存在の奥行きを知れば、誰だろうと
真我にも奥行きらしき理の差の有り様に、思いを巡らせざるを得ない
(宇宙全史では、次元の狭間には何兆兆次元も存在すると語られてある)
(仏陀にあろうと、その狭間で語るとなると人寄りに近し‥みたいな)
‥詰まる所、必要だから行うべしとした理解の差が
「人」と「神」で異なっており、「自我」と「真我」で異なっており
各々においても、理性に従ったり、感情に従ったり、知性に従ったりとしており
役割の向き不向きとした因果に満ちて在る所の揺れ方、振れ方に
己がどう思い、為したのか・為さなかったのか‥唯それが在るだけだ
それらが、宇宙な一体として在るばかりだろう
(汝が予測したり、観察し得ているなら、確かに宇宙とした部分生命として在るのだ)
> だが、そこには価値観とした価値観が存在しない
されど、ご褒美欲しさに、思いこみ勝手にも、自他の価値付けをやらかす姿が有るばかりだろう
其をエゴというそれだけのことだ
美醜、好き嫌い、ケチ・親切、優秀で使える・馬鹿で使えない(誰だってやらかして在るのだ)
その上で、エゴの肥大化を邪悪と区分する‥其れだけのことだ
> そして「価値付けとは何か?」と問うなら
その手の価値付けにこそオリジナル感を馳せ感じたいとした趣になる
我こそが上位者であるとした上下観、それの有り様を正して証明したいと望むばかりだろう
そこに汝の酔狂を纏おうとしてあるなら、エゴの希薄化など無理
むしろ、邪悪への道こそ上等とした立ち位置を占めて在る
価値を欲していれば、欲するほどに軽く足を掬われ、価値にスガルばかりだろう
拠り所としてスガルとした意味としては、どれも同じであるがゆえの「力こそ正義依存」だった‥
> 獣じゃあるまいし、もっと自由に発想せよとした意図が、人間種には込められて在る