2023年08月20日

【宇宙全史】真我は0の概念?、実存は1の概念?と仮定してみる

↓6)記稿.2023/08/20

> ‥「真我とは?」「実存とは?」そんなの知らんがな
> と言う所のお勉強にありますが、感覚を正しく掴めていないとお話になりません


 ‥宇宙全史では、真我の先を見てみたいなんて、奇妙な好奇心丸出しされてますが
 てめえの得手不得手を見直すのも其れの代替的なよすがに思う所ですが
 ‥まぁ数学的に妄想すると
 実数の世界と虚数の世界の端境に例えられる何かが、最果てにくさびのようにしてあるのでしょう

 ‥まぁ宇宙全史の御説を聴きいるに
 真我が0で、実存が1くさいと思うように至り
 「世界は一つ、宇宙は一つ」‥とした思考の方向性が、実存から随分と遠ざかってあったくさい‥


> そもそもにおいて、何かの端境・区分を一つにすることに意味なんて無いと理解した上で
> 宇宙や世界と一体である境地・境涯に至れば、実存のレベルと言うことらしい


 (世界が変わるより先に、てめえの心境の変化の方がはやいのだから‥当然でしょう)
 (裏返せば、世界に変化を期待する意味なんか1ミリも含まれていない‥みたいな)
 (死体の転がる戦場でさえ、慣れれば、飯が食えるみたいなそれ)
 (良い意味でも悪い意味でもそれは可能)

 ‥じゃ、その先って何?、1と0の違いって何?

 概念ですらちんぷんかんぷんなのに
 世界観認識としての「実数空間」と「虚数空間」の違いに誰も興味なんか持っちゃいない

 精々が1と0の違い止まりまでで、生命的創造観としての最果てが0なのでしょう
 なので、1を理解すべきが真っ先に基本なのでしょう(私とは何か?‥みたいな)


> てめえが宇宙の一部というのは、構成要素に存在している以上‥否定する所になりえません
> でも、「一部だから何?」とした疑問形にあるのが、実験惑星・地球暮らしの側の日常です


 宇宙が、只偶然の産物ぐらいの認識で止まっていると、そこに意味を湧かす所に居ないわけですが
 だからとて、少しぐらい、達者になって妄想を巡らそう湧かそうと
 私自身の創造力の中に宇宙らしさを感じる止まりなわけです

 (そういう流れでの、宇宙の一部とした理解でもありません)
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:36 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする

2023年08月19日

【妄想】UFOと光学迷彩と指向性兵器と火事

記稿.2023/08/19

> マウイ島の火事が指向性兵器によるそれだとして
> 一体全体、どこからビームを放っているのか?


 ‥衛星からだとの声が大にあるが、あんなに細かくやれるわけがない
 そもそも、衛星からあんなにビームを放てる動力を背負わせて打ち上げられるわけねぇし
 宇宙で組み立てるにしたって、何回も打ち上げないと資材は上がらない
 それでなくても、動力を宇宙で組み立てるなんて離れ業をやってのけられるわけが無い

 (ゴミが弾丸以上のスピードで飛び交ってんだぞ、無理ッ)

 そんなに衛生だと思い込みたいなら
 宇宙に並べ上げる次世代衛星通信の方を疑うべきだろう

 (アレが実は全部、指向性兵器とか‥ゾッとするz)


> なので、UFOと光学迷彩と動力問題解決と大編隊とした妄想をするしかない


 地球製UFOでさえ信じがたいのに
 それに動力問題を解決した指向性兵器を積むなんてさらに信じがたい
 さらに大編隊とした可能性まである‥

 その予算を確保する為の演出がウクライナ戦争だった

 技術的な目処、支払い的な目処、サイコパス編隊運用の目処
 諸々の目処が立って、用済みになったのがゼレンスキーへの掌返しだったくさいと‥


> これからは、更に過激な世界的な火事火事火事地獄ということらしい
> さらに、その編隊兵器を‥より高性能なAIに置き換えたいとして進めてるんだろうz



posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:47 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

2023年08月18日

【卒論ネタ】[食べさせる]ってどっちが使役主しているの?

記稿.2023/08/18

> では、まず「学ばせる」の復習です


 ‥基本は
「せる」:五段・サ変動詞の未然形
「させる」:[せる]該当外の動詞の未然形

「れる」:五段・サ変動詞の未然形
「られる」:[れる]該当外の動詞の未然形 & [せる][させる]の未然形

 だそうですが、今は、乱れる要因を推し量るのに、頭の片隅で十分です


 先生は生徒を学ばす(随分と上から目線な「勉強せい」の精神です)
 先生は生徒を学ばさせる(どうにも職業柄な物言いになりました)
 先生は生徒を学ばせる(さ抜きになってあら不思議、妙に落ち着いた感じになりました)

 まぁ要するに、指導はすれど強要はせず
 勉強とは、主体性が問われる大事なわけですから
 「学ばせる」とは、そういう哲学が込められているみたいな響きですよね


 ‥なので、先手必勝に陥りがちだった帝国軍も同じく
 攻撃させるのでは無く、「攻撃せす」とした方針だったくさいと‥
 (戦後になって「攻撃せず」になったと)

 我が司令部が我が軍に攻撃命令を下すのでは無く、御上が攻撃をするのである‥みたいな
 (つまり、戦後から、御上が攻撃を放棄したどえむ)


 ‥そんなこんなで、帝国の軍隊用語の多くは「さ抜き」表現でしょう
 当時の宮内省の公文書がそうなら、他も右に習えだったくさいと‥

 そんなこんなで、攻撃せり、奇襲せり、成功せりとした威勢がラジオを通して垂れ流される一方で
 御上が作戦を違えるようなことなど有り得るわけがないとした「黙り」を決め込んだどえむ


> まぁそこはさておき
> 「食べる」に置き換えて見ると不思議な世界に迷い込むことになります


 親が子に食わせる(ものの見事に「さ抜き」表現です‥それでいて丁寧に聞こえない謎っ)
 親が子に食べさす(なんだか躾け表現にも聞こえてきます‥不思議ですよね)
 親が子に食べさせる(はい、とても丁寧に聞こえます‥これでいいのでは?‥はいアウトッ)

 さて問題が発生しています
 「食べさせる」と用いるてしまうと、今度はどっちが使役しているのかが謎落ちしてくるんです

 食べさせる方が使役主なんでしょうかね?
 食べさせて貰う方が使役主なんでしょうかね?
 使役としての意味が曖昧になっており、謎落ちしてるんですよね(深い闇ですよね)


> では、[に]を[を]にしてみましょう


 親が子を食わせる(あら不思議、使役観が反転してしまいましたん‥)
 親が子を食べさす(なんだかより一生懸命に聞こえてきます‥不思議ですよね)
 親が子を食べさせる(はい、ドドンと使役責任ありきとして、のし掛かってくる様相です)

 (まさに、使役責任とした社会ルールに使役しているかのように聞こえます)
 (日本社会の重さまでもが、表現されてくるみたいな)


> 大抵の多くが、そういう所を意識しないで、○○せる・させる云々と用いるので
> 却って、「誰が食わせてやっているんだぉ」と雑な方が通りがいいようです


 ‥「せる・させる」丁寧に聞こえればそれで良いと思ってはいませんか?
 それの使役とした意味が、一体全体何なのか?‥トコトン問うた上で、用いるべきですよね



posted by 木田舎滝ゆる里 at 19:03 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

【卒論ネタ】×学ばさせる → ○学ばせる‥は、どうしてこうなっているのか?

記稿.2023/08/18

> 文語の助動詞「す・さす」が、口語の助動詞「せる・させる」に成り変わっただけでもなく
> 現代国語において、「学ばさせる」はさ入れ表現として区別し、誤用になってます


 ‥「ら抜き」は駄目でも、「さ抜き」は部分的にOKどころか絶対視みたいな
 しっかりとした説明をして頂きたい(説明できたら逸材って事ですよね)


 ‥気付かれないように、「さ入れ」表現はいただけません‥言ってんじゃねぇよ

 「ら抜き」はいただけませんが「さ抜き」はありなんです‥なんてやってると
 授業でぜっていツッコまれるからな(そういうコスい先回りして回避してんじゃねぇよ)


 ‥まぁ学習指導要領の学ぶべき漢字の選択からしてGHQ絡みですからね
 そういう流れで‥片方だけ扱いましょう‥空気でやって来た感ありありですよね


> それとも、明治の文豪が、好んで使用し始めたから?
> まさかのそれだけとかもありそうですけどね


 ‥じゃ、まぁ「ら抜き」もそういう心理学?
 まずは、青空文庫に検索を掛けてみよう‥みたいな

 明治当時からの「文豪ルール」なら、文豪ルールとして、そう表現すべきでしょう

 明治に義務教育の用から、言葉遣いの標準統一せなならんかったわけだけど
 その辺りでいきなりに、助動詞の用い方にまで例外特化の固定は無かったでしょうからね
 なので、文豪臭いとの推理になるわけです


> 歴史的に妄想するに


 ‥「さ抜き」が先に発生していたが
 当時は誰も「ら抜き」も「ある程度なら許容できそう」とは思わなかった

 だが、時代が下り、電子メールのやり取りが盛んになると
 一文字でも楽をしたい脳が、「ら抜き」を好んで用いるようになった‥みたいな

 なら、「さ抜き」を好む流れの社会現象もあったに違いない
 と言うことで、誰か調べて教えてね♪


> この国には「和歌」とした伝統色があるので
> 「文豪ルール」だったにしても全然ありだからな、西洋哲学・科学観に慄きすぎ



 ‥ぶっちゃけた物言いをしておくと

 攻撃せり
 破壊せり
 成功せり‥つまり軍隊用語上とても言い回しやすかったので定着しました‥みたいなオチくせぇ

 ああ、学ばせり、学ばせり

 詩表現としても、ゴロが良いですからね

 というところの助動詞「り」からの影響&誤用だった‥かも知れませんよね
 もしかしたら当時から‥助動詞「り」に一般理解が薄かったかも知れないと‥

 使役と言うよりは、「してやったり」ぐらいのニュアンスだったかも‥

 「ら抜き」が現代人に、丁寧すぎる言い回しで好かんとして定着しているのと同様に
 「さ抜き」の方が、垢抜けて聞こえていた感覚だったので好まれたのかも‥


> それが歴史的解なら、文科省の肩身は狭そうどえむ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:20 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

2023年08月17日

【卒論ネタ】「食べれる」と「食べられる」の違いを論破せよ

記稿.2023/08/17

> 今から述べる説明は、日本語を学び始める外国人には「?」かも知れません
> そして、文科省(学会)の解釈が、舌足らずだったようにも見えるでしょう


 ‥まず、庶民が間違って使いまくっているとされる
 「食べれる」を「食える」に置き換えながら考えてみましょう

 並べてみると

 わたしはピーマンを食えた(普通に使う)
 あなたはピーマンを食えた(ほとんど使わないニュアンス)
 あの子はピーマンを食えた(まぁ使うけど‥かなり雑な言葉使い)

 わたしはピーマンを食べれる(文科省が指摘する言葉使い)
 あなたはピーマンを食べれる(ほとんど使わないニュアンス‥違和感ありあり)
 あの子はピーマンを食べれる(食えるよりは丁寧に見える言葉使い‥庶民脳ここ)

 わたしはピーマンを食べられる(る・らる流れの自発可能使用)
 あなたはピーマンを食べられる(る・らる流れの尊敬使用?‥日常的に構成しがたいニュアンス)
 あの子はピーマンを食べられる(る・らる流れの可能使用‥庶民には文語すぎてお堅い感じ)


> つまり、二人称の時だけ日本語が特別になるのだった(再発見)


 一般的に、一人称と三人称には、「る・らる」を助動詞にすると、自発・可能の意味で通りやすい
 なのに、二人称では、「る・らる」を助動詞にすると、途端に敬意を込めた意味が強くなる

 そこを余り理解せずにやらかしていると、何でもかんでも「られる」が正しい石頭と化する
 という癖を発揮するらしい


> さらに、時間や場所、状況を変えても使い勝手のニュアンスが変わるのだから悩ましい


 ほとんどのセロリーは不味くて食えない、でも、この名人セロリーなら食える
 ほとんどのセロリーは不味くて食べれない、でも、この名人セロリーなら食べれる
 ほとんどのセロリーは不味くて食べられない、でも、この名人セロリーなら食べられる

 ↑一様に揃えると、不思議とクドさ稚拙さを纏って聞こえるので↓が適当になる


 ほとんどのセロリーは不味くて食えない、でも、この名人セロリーなら食べられる


 (単発でなら「食べれる」もありだったのに、文の構成次第では、明らかに伝わりづらいと判明)
 (文科省の指摘脳が、この辺りと言うことのようです)

 ‥不味いそれに丁寧さを用いるのは変なので
 使い分けした方がキャラ感が際立つと言う風にマンガ的解釈で唱えないのが教壇のもどかしさ
 (だって差別するのを教えているみたいだから、教壇からは口にしがたい‥みたいな)

 (結果、国語が乱れたと‥そもそもこの国は‥お家偏見ありのお国柄でも有るのにな)
 (お家主義を隠すようになったので国語が乱れた??)
 (さらに今どき御上は横田幕府だったり、ザイニチですからね‥乱れて当然みたいな)
 (そんなん戴きたくないし)



> で、先のピーマンを振り返ると


 「あなたがピーマンを食べられるようになったのは‥」と言う風に用いるのが一般的
 つまり、二人称の時ほど、「る・らる」流れ助動詞を単発に言い止める使用をしない模様
 なので、その隙間需要に、「食べれる」とした用い方をするようになったくさっ

 だって、↑にしたって指導や説教でもあるめぇし、「あなたが」なんて二人称で語らねぇじゃん
 ほとんどが三人称を放り込む所でしょう



> ということから「食べれる」を用いても無難なのは
> 主語を外しての三人称ニュアンスとした方向性のみ??
> しかも‥単調な文での言い切り風とした予想が立つ‥‥では、確認だ


 食べれる 今日は食べれた
 見れる  今日は見れた
 来れる  今日は来れた
 着れる  今日は着れた
 起きれる 今日は起きれた
 決めれる 今日は決めれた


 ‥まぁこう並べてみると、つまり、幼児語とした解釈に落ち着くと
 「社会人に成っても幼児語使ってんじゃねぇよ」と文科省は言いたかったくさいと‥

 始めからそう言えば良いのに、日本語の乱れとか(まどろっこしい)
 幼児語としては間違っていないので「乱れ」と表現しました‥みたいな

 まぁ外国人向けの学習レベルに落とさないと世界に認知されないもんね(悩ましい)
 結果、国民の民度までどことなく幼稚と化してしまった(日本語の言霊の効果?呪い?みたいな)


> なので、マンガ表現の幼児語としては十分に有り(なるほど、了解です)
> だが、国語・日本語教育としては悩ましいと



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:40 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

2023年08月16日

【アイデア】エアコンの性能は上がらずとも電気代を落とす為の思考

記稿.2023/08/16

> ArticBlast(アーティックブラスト)の広告を見た
> どう考えても冷風機(冷風機としての性能は高そうだけど‥)


 冷風機からの冷気の大元が湿気である
 湿気が多いのに涼しくある為の条件として空気を入れ換える必要がある
 それも湿度の低い空気であればあるほど、その冷却効果は持続可能

 まぁ簡単な理屈ですよね

 ところが、日本の環境でその効果を得るとなるとかなりキビシイ
 湿度の低い気象条件の土地なら、それでも良いでしょうけど
 日本でとなると、とくに台風時には即効果ゼロでしょう(締め切るから)

 (台風時なら、雨戸して窓を開けて網戸の方が、よっぽど効果出るでしょう)
 (台風を天然の冷風機状態に見立てりゃ、そういう理屈です)
 (台風で湿度が高くても、湿度上昇せずに、風だけ入りゃ涼しいのです)


> どちらかというと
> エアコン機能のドライの逆で涼しくなると言う‥あら不思議がそこに在るだけの話


 ‥まぁこれな要素を日本のエアコンに取り込むとすると
 室外機の有り様を工夫すべきになります

 まず、カンカン照りの下にある室外機なんて論外
 (都心に良くある光景として、高層な屋上に置いてある室外機群なんて超論外)

 部屋の中の空気を外に出して、外の空気と組み替えながら再冷却する循環にあるので
 室外機の温度上昇は最悪の悪循環を生み出すだけです
 都心での其れを俯瞰して例えるなら、建物の高層群の高さで、熱風で蓋をしている状況
 なので、其れより上空にあるはずの大気と循環できない‥

 なので、室外機を日陰に置くのがまず第一歩(電気代で多少の差になるはず)


> 積極的に室外機を冷やすには、地下に設置するしかねぇ
> 夏場、地下に通した空気は、随分とひんやりするらしい(冬場はその逆だそうだ)


 なので屋上に傘をすれば日陰でしょうとするだけでは、冬に逆効果に晒される??

 まぁ空気スペースが十分に無いと、循環させるに値しない状況に落ち込むだろうけど
 それは、各家庭のエアコンの設定温度に関連するだろうけど

 全国的に見て、室外機の熱を下げてから放流すると
 外気の温度上昇を下げられるので、相乗効果での電気代節約になるだろうの解釈です

 (只でさえ日本の夏は蒸し暑いので、室内温度が一度二度下がるだけでも有り難い)
 (むしろ、夜の気温が下がりにくくなっているのだからそうすべきである)


 ‥そういう俯瞰した効果期待なので、土地によっては効果が薄かったりするだろうけど
 (夏場は駄目でも冬場はありがたい節電効果を得るなら、買い替え需要にはなるでしょう)
 (まぁ室外機だけの取りかえというか再設置だけで済むならそれに越したことはありません‥)


> だがしかし、根本的な効果を得るには、地下を掘り返す工事を吹っ掛けられかねない
> その極端な言い方をすると


 ‥工場の熱排気をトンネルを介して冷やしてから外気に放流すべきである
 まぁそういう話になってくる

 だが、現象的には、トンネルの向こう側の平均気温が何度かの上昇を見せるかも知れない話だ
 さらに、始めこそ従来より冷えてたとて、トンネル内の許容を超えれば、元の木阿弥に‥

 ‥なので、トンネルの半ば辺りから、空気を積極的に除湿してやる必要が伴う
 ひんやりとは又異なり、カラッとした涼しげな空気が排出されるだろう‥
 だが、冷やすにしても水分の比率が欠かせないので、短絡的に除湿すりゃ良いわけでは無い

 (工夫しないままなら、カラッとしてるけど生暖かいなんてオチにだって成りかねない)
 (つまり、肝心の熱を抜き取らずに、単に除湿して放流しただけのオチになりかねない)
 (そこにある湿度を上手に活かして、下げていった方が熱取り効果は高いはず)
 (回収した水分の放流先が又々悩ましい話になるわけだけど‥まずは川の水温より低くするべし)


> でもまぁ、てめえのエアコン周辺の外気循環の話で言うと
> 電気代を下げられる余地はそれなりにあると言えそうだ(全体俯瞰での相乗効果だけど)


 ‥都市計画としては、今やどこでも、洪水対策に雨水の退避先が欲しいぐらいだし
 それな地下トンネルを夏場の冷気製造器とし、冬場は暖気製造器とし
 なんだかんだでその都度に利用を変えられれば合理的でしょう‥みたいな

 (まぁそれの残土問題どうすんだよあるあるなので、却下になるでしょうけど)
 (スーパーカミオカンデらの排出残土‥どこに撒いたんでしょうかね?‥ほんと謎‥)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:25 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

2023年08月15日

【ネタ文学】ファンタジー風社会主義の何が不満なんだか?(生活魔法ありなら文句もあるめぇに)

↓2)記稿.2023/08/15

> 日本の年貢は、器用にも藁袋に詰めていた
> 西洋の年貢は、どうにも麻袋くさい


 ‥すると、麦の収穫物を収めるのに、わざわざ麻を育てていたことになる
 述べるまでも無い、麦わらは馬車馬の餌だった

 (日本の場合、そんなの関係ねぇので、西洋の其れは、随分と手間の掛かる感じだった事になる)
 (というかその条件だと、江戸の百万人とした規模を西洋側で同じく達成できるわけが無い)


 ‥すると、童話に出てくる機織り女とは
 麻織りを意味し、年貢の為の麻袋用途から順に生産していた事になる
 (村の機織り女の多くがそれなら、彼女らの手取りは非常に薄かったはず‥)
 (大商人が扱おうなら、奴隷の仕事の部類でしょう)
 (奴隷服の印象としても、それの残りから奴隷に縫わせたコスパ安でしょう)


> すると、麻を育てる土地にまで余裕が無かった北方バイキングどもは
> 年貢とした概念を半ば放棄して、略奪を選択するのが流れだった臭いと‥


 ‥換金して税金として支払えば良いとなったら、そりゃ、そうなるでしょう
 (自分たちの麦を売っちまったら、それこそ何にも無い)
 (売ろうにも容れ物からして毎年に買わないと無いとか‥大損、重税感ありありでーす)

 ‥舟をこしらえる技術があっても、そもそもに平和利用しない脳筋だった‥みたいな
 (じゃ、そんな子孫が居るんじゃ、科学に正当性も糞も無いよね)
 (産業革命からして戦争革命だった‥剣から銃へ爆弾へ‥戦争のやり方が変わっただけだった)


> まぁその辺は置いといて


 ‥異世界での小領主ともなると、領主が麻袋をまとめ買いした方が得だったかもしれない
 その分、別の何かを栽培させた方が実入りが良かったなら、そうするかも知れません

 ‥でもそんな考えをどこの小領主も考えていたとなると
 誰かが麻袋の大量生産(利権)をやらないと用を満たせなくなるのだから
 王宮としては、結果、そこから麻袋を供給配分するとなると、運送の二度手間に見えなくもない

 だがしかし

 麻袋を配付してやるから、それにしっかり年貢を入れて返せとすれば
 バイキングのような惨状を避けられるよすがを得たかも知れない
 (まぁ村人は口々にこう呟く事でしょう‥‥まったくに毎年毎年のくそ高ぇ麻袋代だよなぁ‥‥)


> でも、上からそうだと下も諸々考えるでしょうから
> 領主の多くが、領民の暮らしに必要な何かを領主としてまとめ買いを担ったかも知れない


 年貢の納め日に、年貢と物々交換でそれら必需品を給付するみたいな
 (それの都合した量次第では「ありがとうございます」‥なんて感謝されちゃうでしょう)
 (とくにそれが、塩とかハチミツとか麻の反物とか農具とか‥だったら目の色変わるよね)

 そんな様相こそが、「ファンタジー風社会主義」と言えそうです
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:33 | Comment(0) | ネタ文学 | 更新情報をチェックする

2023年08月13日

【宇宙全史】自我とアイデンティティーと肉体と時間

↓1)記稿.2023/08/13

 親霊に紐付いているから子霊(自我)にアイデンティティーが宿る
 (親霊の立案した目的やら天上界依頼の使命に添った中身が人生のモチベーションみたいな)


> 其は、親霊の意思・狙いに同意した状態と言える(自我)


 親霊は、個としての特定のアイデンティティー(宇宙・宇宙らしき)を担っている
 そこに根を張っているので、その位置から直接的に真我への興味を示すには遠い

 だが、子霊は、相互点とした地上に降り立ってあるので
 諸々の干渉やら影響を受け易い事から、親霊とは違った視点に晒される

 なので、親霊由来のアイデンティティーを捨てるチャンスを有する(真我への道)


> 但し、真我や邪悪の獲得は、親霊が用意した創造時間を=捨てるに等しい


 親霊が用意した‥シナリオ(人生の青写真)の他に
 降り立った土地神・天上界・地球諸々からの‥容認・許容・承諾に値する経験を積む必要がある
 其は、エネルギー量の最低限度の確保・活用の拡大(自在性の獲得)を意味する

 (其をすっ飛ばしても、真我を保てずに私を失うだけに陥る)

 人生の目的から発生し得る親霊ゆずりのアイデンティティーを捨てる代わりに
 捨て方の完成度としたアイデンティティーの獲得を求められている(真我としての主人公色)


> そして、真我の琴線に触れて獲得に至ると「私が消える」‥‥
> 時間が消えるなら肉体も消えるのが本則だが、真我入りする際に空蝉残す選択が可能らしい


 ‥なので、再び真我から出てくるとは

 手順として、真我の外にまず親霊を降ろす思惟を誘発させつつ
 そこには既に、相互点に参加すべき状勢があるわけで
 目的とする平行相互点に焦点を当てた転生行為が発動するように思われる

 (最も、一時的な念だけを降ろして、後はバイナラ‥パターンもあるあるでしょう)
 (すべて親霊は、其れの過程の私でも在るので、出しゃばるほどになければ、とくに気にせず)
 (まぁ役回り該当する親霊に依頼する程度でしょう‥断られたら出しゃばってみる‥みたいな)


> なので、「我思う故に我あり」の深遠として
> 依頼の依頼の依頼のそのまた依頼の依頼‥‥とした動機ありきで「我」なんか無ぇみたいな


 其れな依頼をこなすだけなら優等生
 でもそれだけじゃ面白くないとばかりに、捻った「癖」をその都度自我に与えてやる流れになった
 結果、「癖」が「癖」を呼び、カルマありき解消まじりありきに及んだ
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:39 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする

2023年08月11日

【宇宙全史】人生は遊べるオモチャなんかじゃ無い、だから遊べるオモチャが欲しくなる

↓2)記稿.2023/08/11

> 人生は遊べるオモチャなんかじゃ無い、だから遊べるオモチャが欲しくなる
> それは、絶望してしまっているようにも見えるし、一歩手前のようにも見える


 だが、誰もそんな見方になんか興味が無い

 興味が湧くのは、「何をオモチャにしようかな?」とした剥き出しの遊びたさにある

 其を‥エゴと呼ぶのも、自我と呼ぶのも勝手だが
 そこの多様性に何の意味があるのかまでは謎だ

 (他人様の趣味やら好みなんか、まさにどうでもいいワンダーランドだし‥)

 誰だろうと、そこここに興味が湧いて、遊びたいから飛びついているだけの事だ
 その衝動性を「サル」とも呼ぶが、まぁヒト種の劣化版がサル種だというし「猿」でも良いと思う
 人の猿っぷりにも、様々有りましたというだけのことだろう

 (なんでも、地球に調査に来たプレアデスチームは)
 (コソッと猿の遺伝子をてめえにお注射したらしいという謎記述がしたためられてある)
 (どうにもそれが‥子孫へと拡散したのだろう)


> だが、なんでオモチャを欲しくなると、低脳とした猿扱いになるんだ?


 まぁ人間に関して言うなら、それの大抵がヒトの間に発生するからだ
 ヒトがヒトをオモチャにして遊ぶという其を指してある

 もう少し食指が伸びると、別の種の生きものとなり

 動く構造を知る為の調査をしたり、製造してみたり、動かしてみたり
 世界に閉じ込めて、繁殖させつつ観察したり‥


 とまぁ、ヒトに課せられた実験側のそれに近しい欲求をヒトも求め出す

 つまり‥人生=被創造物立場は詰まらない、だから、創造側に成りたかった‥

 と本能的にキャッチして、それの意味が解らずに、ノイズとしてダラダラとやり合っている
 その途中経過が、力こそ正義とした支配と被支配の間なのだろう


 (‥もっとも、それの関係からして、マトリョシカ構造だったとしたら)
 (途中経過におけるマトリョシカが)
 (小さいマトリョシカを、我の支配下だと主張して一歩も譲らないなんて事にも成っていそうだな)
 (だからこそ、ノイズ感ありありな調教的ポチ状況なのかも知れないな)


> だが本当は、創造側への道に進むのが本道らしい(真我)
> 親マトリョシカ(真我)としたサイズ感こそが、本来あるべき成長の先にある脱皮‥みたいな


 でも実際はそうでは無い

 ヒトの多くが、詰まらなくならないように、一生懸命に楽しもうとして頑張ろうとする
 その猿な有り様を観て、自己満自我を育て合っているとして、創造側が不合格を下すのだ

 (僕も私もこのぐらいのサイズで十分ですと言わんばかりで、使えねぇみたいな)

 (まさにそれこそがプレアデス失敗作圧しくせぇ)
 (失敗作が語ります「宇宙の最後だろうと楽しいことを考えましょう」とかなんとか)


> なので、本能的にオモチャが欲しくなるのは、学ばせたいとした仕掛けだからだろうけど‥


 でも、ヒトがやらかす辿り着いたオモチャこそヒトだ
 だが、ヒトにも厭きるのがヒトだったりする
 お互いに遊びたいオモチャのうんちくを語り合って、気が合わないと、喧嘩別れしたりするのだ
 でもやっぱりまたオモチャが欲しくなるので、同じ事を繰り返す
 良い意味でも、悪い意味でも、同じ事を繰り返す

 ‥オモチャやゲームが簡単すぎると詰まらないと言い
 ‥オモチャやゲームが難しすぎても詰まらないと言い
 ‥難易度ふつうぐらいが楽しいと言うも、結婚相手がふつうだとリスク大で嫌だとか
 (背伸びさせたいのが親心、背伸びしたいのが娘心などと‥何様かを言い放つ)

 その姿こそ、人生を遊べるオモチャか何かだと勘違いした姿と言えるだろう
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:20 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする

2023年08月10日

【ツッコミ隊】集団性に依存してしまってきた声援脳(競争社会方式の澱)

記稿.2023/08/10

> 競争においてヒトには二つの選択肢がある
> 組んで甘い蜜を目指す道と、組まずにぼっち好き放題に進む道だ


 ‥まず、ヒトは競争の前に自分のしてみたいことを持つ
 その「してみたい」だけで生活していけるならそれはそれだが、大抵はそうでは無い

 好き嫌いに激しければ、悩ましさを抱えながらだし
 創意工夫をこらせば躱せる事でも、依頼通りの下手に謙るのもオチだろう

 自分一人で全てをやらないとならないともあれば、それの取捨選択で損にもなる
 だから、大抵は、組んでやることでその手のリスクを減らそうとする

 だが、組んだからには、売り上げるべき必要は倍になる

 少数精鋭なら、さほどにブレないにせよ
 規模が大きくなるほどに勝手も意見もままならなくなる
 それどころか、乗っ取られていたりすると、辞意も絡んでくる


> この中身・流れを声援に置き換えてみよう


 ぼっちで頑張ると、声援される比率は、とてもまばらで貧弱だ
 組んでやると、誰かしらの声援が束なるので、直に自分が該当から外れていようとも
 チームやら組織での声援になるので、その点では孤独感に苛まれずに済む

 だがしかし、チームやら組織に存続できるか否かは別だ
 結果を出さなければならないのは、ぼっちで声援が無いのと同じぐらいの辛さがある


> 問題はここからだ


 声援する方としては、能力の有る人も不足気味の人も同じように
 チームやら組織やらで声援できるので差別感から遠のく感触を味わえる(公平感)

 なので、無駄にぼっちで頑張る人を扱うとなると途端に、それ以外との差を突きつけられるのだ
 すると、どこかでオンリーな声援を為なければならない自我に戸惑い始めだす(不公平感?)


 声援を送る送らないは自由、さしてこだわっているつもりなど無くても
 続けやすい声援と、続けにくい声援とが脳内で発生してきたわけである
 (陽キャ・陰キャにこだわるようなタイプの頭の中みたいな)


> その不特定多数の善意を前提にして、依頼もされていないのに傾向だからと思いこみ
> 自分は良いことをしているなどと言う妄想をやらかすのも、ぼっち色とした傾向だったりする
> (モチベ上げたくて、てめえの仕事馬鹿を都合の良いように解釈するあるあるパターンだ)


 ‥ちゃんと需要確認取らないやらかしは、その手のぼっちと同じ
 だがしかし、その辺の根回し馴れしているタイプを有能と思い込むのもぼっちと同質だ

 だがしかし、根回し馴れしているタイプが居ると任せてしまうのも世の傾向だ
 そしてなぜか、根回し馴れしているタイプほどプライドを持ち出す口だったりする
 (&てめえが下手を放いたことには黙ったちゃんやらかすどえす)

 (結果、誰かにツケが回されるどえむ)
 (その時、陽キャ・陰キャとした思い込ませられる土壌があると)
 (特定のタイプに責任を押し付けやすくなるどえす)


> 声援しやすい・しにくいとした脳内公平感こそが、不公平感の源だったとも見立てられるどえす
> (そもそもが派閥向けの声援だから、声援自体が、国境圧・村境圧みたいなもんなんでしょうな)


 ‥通常、ぼっちは、それの圧が苦手なので、ぼっち上等になるどえむ(どっちもどっち)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:45 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする