2023年08月18日

【卒論ネタ】[食べさせる]ってどっちが使役主しているの?

記稿.2023/08/18

> では、まず「学ばせる」の復習です


 ‥基本は
「せる」:五段・サ変動詞の未然形
「させる」:[せる]該当外の動詞の未然形

「れる」:五段・サ変動詞の未然形
「られる」:[れる]該当外の動詞の未然形 & [せる][させる]の未然形

 だそうですが、今は、乱れる要因を推し量るのに、頭の片隅で十分です


 先生は生徒を学ばす(随分と上から目線な「勉強せい」の精神です)
 先生は生徒を学ばさせる(どうにも職業柄な物言いになりました)
 先生は生徒を学ばせる(さ抜きになってあら不思議、妙に落ち着いた感じになりました)

 まぁ要するに、指導はすれど強要はせず
 勉強とは、主体性が問われる大事なわけですから
 「学ばせる」とは、そういう哲学が込められているみたいな響きですよね


 ‥なので、先手必勝に陥りがちだった帝国軍も同じく
 攻撃させるのでは無く、「攻撃せす」とした方針だったくさいと‥
 (戦後になって「攻撃せず」になったと)

 我が司令部が我が軍に攻撃命令を下すのでは無く、御上が攻撃をするのである‥みたいな
 (つまり、戦後から、御上が攻撃を放棄したどえむ)


 ‥そんなこんなで、帝国の軍隊用語の多くは「さ抜き」表現でしょう
 当時の宮内省の公文書がそうなら、他も右に習えだったくさいと‥

 そんなこんなで、攻撃せり、奇襲せり、成功せりとした威勢がラジオを通して垂れ流される一方で
 御上が作戦を違えるようなことなど有り得るわけがないとした「黙り」を決め込んだどえむ


> まぁそこはさておき
> 「食べる」に置き換えて見ると不思議な世界に迷い込むことになります


 親が子に食わせる(ものの見事に「さ抜き」表現です‥それでいて丁寧に聞こえない謎っ)
 親が子に食べさす(なんだか躾け表現にも聞こえてきます‥不思議ですよね)
 親が子に食べさせる(はい、とても丁寧に聞こえます‥これでいいのでは?‥はいアウトッ)

 さて問題が発生しています
 「食べさせる」と用いるてしまうと、今度はどっちが使役しているのかが謎落ちしてくるんです

 食べさせる方が使役主なんでしょうかね?
 食べさせて貰う方が使役主なんでしょうかね?
 使役としての意味が曖昧になっており、謎落ちしてるんですよね(深い闇ですよね)


> では、[に]を[を]にしてみましょう


 親が子を食わせる(あら不思議、使役観が反転してしまいましたん‥)
 親が子を食べさす(なんだかより一生懸命に聞こえてきます‥不思議ですよね)
 親が子を食べさせる(はい、ドドンと使役責任ありきとして、のし掛かってくる様相です)

 (まさに、使役責任とした社会ルールに使役しているかのように聞こえます)
 (日本社会の重さまでもが、表現されてくるみたいな)


> 大抵の多くが、そういう所を意識しないで、○○せる・させる云々と用いるので
> 却って、「誰が食わせてやっているんだぉ」と雑な方が通りがいいようです


 ‥「せる・させる」丁寧に聞こえればそれで良いと思ってはいませんか?
 それの使役とした意味が、一体全体何なのか?‥トコトン問うた上で、用いるべきですよね



posted by 木田舎滝ゆる里 at 19:03 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

【卒論ネタ】×学ばさせる → ○学ばせる‥は、どうしてこうなっているのか?

記稿.2023/08/18

> 文語の助動詞「す・さす」が、口語の助動詞「せる・させる」に成り変わっただけでもなく
> 現代国語において、「学ばさせる」はさ入れ表現として区別し、誤用になってます


 ‥「ら抜き」は駄目でも、「さ抜き」は部分的にOKどころか絶対視みたいな
 しっかりとした説明をして頂きたい(説明できたら逸材って事ですよね)


 ‥気付かれないように、「さ入れ」表現はいただけません‥言ってんじゃねぇよ

 「ら抜き」はいただけませんが「さ抜き」はありなんです‥なんてやってると
 授業でぜっていツッコまれるからな(そういうコスい先回りして回避してんじゃねぇよ)


 ‥まぁ学習指導要領の学ぶべき漢字の選択からしてGHQ絡みですからね
 そういう流れで‥片方だけ扱いましょう‥空気でやって来た感ありありですよね


> それとも、明治の文豪が、好んで使用し始めたから?
> まさかのそれだけとかもありそうですけどね


 ‥じゃ、まぁ「ら抜き」もそういう心理学?
 まずは、青空文庫に検索を掛けてみよう‥みたいな

 明治当時からの「文豪ルール」なら、文豪ルールとして、そう表現すべきでしょう

 明治に義務教育の用から、言葉遣いの標準統一せなならんかったわけだけど
 その辺りでいきなりに、助動詞の用い方にまで例外特化の固定は無かったでしょうからね
 なので、文豪臭いとの推理になるわけです


> 歴史的に妄想するに


 ‥「さ抜き」が先に発生していたが
 当時は誰も「ら抜き」も「ある程度なら許容できそう」とは思わなかった

 だが、時代が下り、電子メールのやり取りが盛んになると
 一文字でも楽をしたい脳が、「ら抜き」を好んで用いるようになった‥みたいな

 なら、「さ抜き」を好む流れの社会現象もあったに違いない
 と言うことで、誰か調べて教えてね♪


> この国には「和歌」とした伝統色があるので
> 「文豪ルール」だったにしても全然ありだからな、西洋哲学・科学観に慄きすぎ



 ‥ぶっちゃけた物言いをしておくと

 攻撃せり
 破壊せり
 成功せり‥つまり軍隊用語上とても言い回しやすかったので定着しました‥みたいなオチくせぇ

 ああ、学ばせり、学ばせり

 詩表現としても、ゴロが良いですからね

 というところの助動詞「り」からの影響&誤用だった‥かも知れませんよね
 もしかしたら当時から‥助動詞「り」に一般理解が薄かったかも知れないと‥

 使役と言うよりは、「してやったり」ぐらいのニュアンスだったかも‥

 「ら抜き」が現代人に、丁寧すぎる言い回しで好かんとして定着しているのと同様に
 「さ抜き」の方が、垢抜けて聞こえていた感覚だったので好まれたのかも‥


> それが歴史的解なら、文科省の肩身は狭そうどえむ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:20 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする