2023年08月27日

【卒論ネタ】助動詞「じ」の正体

記稿.2023/08/27

> 助動詞「じ」
> 打消しの推量・打消しの意志の意味をもち、特殊型の活用で、活用語の未然形につく。
> ○/○/じ/じ/じ/○


> 助動詞「り」
> 完了・存続の意味をもち、ラ変型の活用で、サ変動詞の未然形、四段動詞の命令形につく。
> ら/り/り/る/れ/れ


 走(る):ら/り/る/る/れ/れ

 「早う、走れ、走れ」
 「我、今日はもう走れらじ」(今日はもう走ってなんていられへんわ)

 走れ(命令形)+ら(り助動詞未然形)+じ(じ助動詞)


 起(く):き/き/く/くる/くれ/きれ・きよ(上二段)‥との仮説命令形込み

 「早う、起きれ、起きれ」
 「我、今日も起きれらじ」(うわぁ眠だる、今日も寝坊しよう)

 起きれ(命令形)+ら(り助動詞未然形)+じ(助動詞)


> とまぁ現代用語から助動詞「り」と助動詞「じ」がセットで滑落したので
> 「走れない」「起きれない」とした流れが発生していたと言うことらしい


 (無論、助動詞「り」の後に、助動詞「ぬ」は付かなかったとの予想になります)


 ‥其を平成の学者が、馬鹿の一つ覚えにも、「ら抜き」というレッテルを貼った糞

 明治の頃は、日常でもまだ、こげな古風な言い回しを地方でもしていたのだろう(知らんがな)
 徴兵制だったし、大人でも日常だったので、大して気にも留めていなかったように思われる

 軍用敬語を使う機会が多かった頃は、それほど気になる頻度に無かった(知らんがな)

 帰国子女が多く成りだした平成にもなると、学者が聞き捨て成らないとばかりに持ち上げだした
 もとい、ネット翻訳の際になんか不可解しいよという事に気が付いたと予想するのが適当か‥
 (エラーが出まくってしまうので、プログラマーが苦言を呈したみたいな)


> 戦前と戦後で教えていた内容が大分違うと予想もできるが、知らんがな
> (学者の年齢層からして平成頃に入れ替わりが多くなったせいもあるのだろう)
> (古き時代の教育内容を知らなければ、その差が出てくるオチだった‥)


 国立国会図書館行って、当時の新聞から教科書まで、洗いざらいにチェックするのかよ?
 (すんげー大変そうな作業でやんす、まぁおっさん著生は外野ですからね)
 (教科書の内容云々の変更が犯人なら、犯人はGHQに成るッス、日教組も怪しいz)


> おっさん著生は、これをヒントに異世界の獣人語風想定でも構築してみまーす
> (創作なら、仮説段階だろうと関係ねぇもんな)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:01 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

【原始仏教】反省はあくまで自分への反省のみ意図した

↓3)記稿.2023/08/27

> 実存の枠で「世界は私である」=「天上天下唯我独尊」
> つまり、何でもありの世界だった(其は又、派閥ありきの世界だった)


 ‥それまで宇宙に座してきた多くの優勢な意識体らは
 何でもありの世界をありのままに受け入れていた

 「やられたらやり返せ」
 「力こそ正義」とした派閥で林立してたみたいな
 「ボスの信条には従います、でも、手切れする際にはそんなの関係ねぇ」みたいな

 ‥おおざっぱに、地上でもそれは同じだった‥

 釈迦は、その有り様を「生老病死」の苦しみとして悩み
 まずは悩む所から入る天命だった(ガキの頃からしてえらいやっちゃ)
 その悩みどこから湧くんですか?(まぁ王子だったけどね)

 後に、大悟して、其を生み出しているのも自分だと思い知るに「慈悲」を叫んだ

 なので、何でもありの世界に対して
 「てめえがやられて嫌なことぐらい他人にするなッ」
 という意図を仏教の教義に取り入れた

 ‥というか、その頃まで、宇宙や世界にその手の思索が無かったみたいな摩訶不思議どえす

 「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」とした身内の喧嘩を減らす上での掟ぐらいはあったにせよ
 世界平和への理想とした意味でのそこまでの音頭には無かった

 其れの心構えというか生活観を八正道にしたためて
 それとした流れで「反省」たる言葉を押し出した‥と言う経緯に思われる


> だがしかし、言うは易く行うは難し


 ‥自分は気にしないからと無視を決め込むと争いの種になるどえす

 (釈迦にしたって、無視では無いけれど、スルーはやらかすどえす)

 ‥其は、私が気にしていないことを
 気にしている貴方の問題をこちらに振るなと言わんばかりでしょう

 (まぁ相対向きは逆になりますが、釈迦もその手の論法を用いてたりします)
 (差し出された毒饅頭に手を出さなければ毒には掛からない‥みたいな)
 (差し出された汚注射に手を出さなければ汚染には掛からない‥みたいな)


> ‥で、宇宙全史ではズバッと言い放っておりますが
> 記憶に残る次第をエゴだと提示してしまえば、そのように揚げ足を取り合う流れに成りかねない


 ‥私が忘れてしまう事ほど、私にとってエゴが薄いとした発露案件なのに
 なぜ貴方はそれを蒸し返して叩き起こすのか?‥みたいな
 そちらのエゴの方が随分と甚だしくて迷惑だ‥みたいな

 (エゴの薄い方が正しいのだという太々しさを発揮しようとすればそうなるだろう)

 (例えば、煙草が旨いと思っている段階で十分なエゴにあるにも拘わらず:旨いと思えるエゴ)
 (だが結果として、タバコ臭いとしたエゴを喚起しまくる、害に対する恐怖エゴを吹かせまくる)
 (すでに、てめえの気にしている・していないの問題とした話ではない)

 ‥てめえのなり振り構わぬ大好きが、他人の怨みを増幅していてエゴが薄いなんてあるわけねぇ


> 仏教の「反省」もまた、そういう部分もひっくりめて、慮るべしとしている
> (だがしかし、双方の妥協点が必ずしも噛み合うわけでは無い‥そこで罠に落ちるどえす)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:49 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする