2023年09月08日

【ネタ文学】人生の甲斐無き余暇に秋思うああ文学や無駄なき躍動

↓1)記稿.2023/09/08

> 恒星から惑星が飛び出すという太陽系モデルを挙げると難しいので
> 大きな意識から小さな意識が分離して地上に生まれるという転生モデルを挙げても難しいので
> 吹奏楽に置き換えて考えてみる‥


 ‥吹奏楽なのだから、一つとして演奏する時は、指揮者に従わなければならない
 それは一つの時間の共有と言える
 それが一つとした時間だった、暮らし向きだった、その時間はその演奏とした時間の中だった

 ‥ところが、そこからパートに分かれたり
 個人練習だったりすると、一つの集団からポンと抜けて、私とした時間が発生する事に成る
 (皆がバラバラに散らばれば、帰宅するなど‥それはそう見えるだけだが)


 選考されたメンバーから外れて練習する事になれば
 時間としては、複数に存在していくことになる

 それはそれぞれの意識に委ねられた時間だ
 委ねられた時間に慣れ親しむと、そっちの時間の方が楽しくもある(それも音楽だ)

 だが個の意識が肉体として死んで、大きな意識の中に戻ると
 大きな意識の流れに従わなければならないのだから、個としての時間が消えることになる

 (吹奏楽で考えるなら、個人練習の時間が終わって、皆揃っての演奏の時間になるだけの話だ)
 (裏返せば、私の時間だったけど、私としての余暇を楽しむ為だけに、私が用意したのでは無い)


> では、自分が嫌いになった=諸々と在籍云々とした集団性に耐えられなくなったならどうなる?
> 今どきのほとんど多くの「文学テーマ」&「人生テーマ」がそんな感じでしょう


 ‥そこで「愛」を持ち出してくるわけですが
 単純に「うちに来ない?」とした話になっていないのが、飛び出る・分離するとした流れです


 ‥そもそも、時間を分離できてるってどういうこと?
 ‥私が在るってどういうこと?
 (そこの理解が整っていないと、世界と時間の歩調を合わせるなんて無理ッ)


> なぜか‥解らなくなる‥としたオチが付いて回る世界だったわけなのだから‥


 (自然界ほどに回復力を得られなくなった世界、それが現代社会だ)
 (もとい、自然界を無視して勝手気ままに陥った世界、それが20世紀だった)
 (ツケが回ってきて、能力主義からして‥しどろもどろなのが21世紀だ)


 ‥まず吹奏楽に使われる楽器一つ一つにしたって
 分離しても、個としての音楽を楽しめる中身に無いと意味がありません

 さらに全体での演奏の際のハーモニーを想定できていないのでは
 演奏の際に、後から後から、限界を垣間見るばかりでしょう(比較対象を見せつけられればの話)


> なので、その統合されたハーモニーとした目指すべき躍動(計画)が最初にあって
> すべて事は始まるのです


 でも、人生においてこれは理想論です
(よくよく考えても、躍動を得られるだけの比較対象が存在していたという痕跡を疑わざるを得ない)
(よくよく考えても、躍動を得られるだけの比較対象が存在していたという痕跡を疑わざるを得ない)
(すでにライバル視による戦場模様だったというオチがそこにある‥みたいな)

 でも、人の手が加わらない自然環境では、なぜか日常です、自然体です
(まるでライバルなんて存在せずに、自分たちですべて積み上げてきた‥みたいな)

 でも、完璧に見えてる自然界にしても、過不足は起こり得ます
 必要とも成れば、一からやり直しだって有り得ます(天変地異みたいな)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:06 | Comment(0) | ネタ文学 | 更新情報をチェックする