2023年09月10日

【ツッコミ隊】記憶と繋がりの謎

↓2)記稿.2023/09/10

> 私たちは記憶を失って地球に生まれ変わるルールに在る
> ならば、記憶を失わずに生まれ変わったなら、親霊・子霊とした分離感はあるのだろうか?


 ‥記憶として繋がってあるなら
 それとしたニオイやらで、更に辻褄を合わせれば、同質の何かと思うのだろう
 そこに懐かしさがこみ上げたなら疑う余地などなかろう

 (‥私とは何か、私は何を為するべきか‥に問い悩む必要なんて無くなるのだ)


 では、なぜ、わざわざ意識の分離をし合うのだろうか?

 何も意識の分離が趣味というわけでもあるまい
 まぁ考えられることと言ったら、肉体に全部を押し込めないから
 となるのだろうけど、その肉体にしたって
 地上の側の核戦争の繰り返しで小型化したという説がある
 まぁそういう経緯になるのだろうけれど

 それはそれで、神の側も性能テストの際に肉体に転生したのだろうし
 それはそれで、状況は変わらず、全部を押し込めなかったと推理できる
 その経緯の中で、本体と分身とした形での転生になんらかの突破口を見出したのだろう


 ‥だがしかし
 多くの場合、分身には質問力が無かった、伺い力が無かった
 上からのお達しやら説明が無い限り、自ら進んで問う所が無かった

 それはそれで、通信が来なかったら、それこそ闇の中なのだ

 (まぁ分身なんだし、本体からしてみれば、世話せざるを得ないとした向きだったのだろう)
 (なので、結局は本体が根掘り葉掘り面倒を見ていたのだろう)


> だがしかし、地上に出ている側が、主体性を得ないそれに意味なんてあるだろうか?
> そう考えると、記憶を失わせるとした手法は実に興味深い提案だったに違いない


 ‥しかしその結果、激しい分離感、疎外感に襲われることになった(エゴの殻と化した)
 そうなってから、そこに宗教が登場した事に成る(エゴの強化と化した)

 それにしたって、神が面倒を見るとした宣言に聞こえてくる‥(記憶を失わせた意味あんのかよ?)

 ‥だが、魂のシャッフルとした狙いもあったかも知れない
 ‥だが、それは記憶を共にしない同士の怪しいすがり合いの渦だ(意味あんのかよ?)
 ‥シャッフルとした結果、器とする幅が広がったなら話は別だけど、そうには見えない

 (希望する器の拡がりを得たいなら、それこそ地味に、時間を掛けて積み上げるべきである)
 (シャッフルしてみようだなんて、ほとんどがインチキきわまりねぇ中身だz)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:29 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする

【用法】体言+助動詞「ぬ」は、二つの顔を写し込む

記稿.2023/09/10


|再選に挑む音色も青東風ぬ「いい音はいいと言わざるを得ない」

 ということで↑の解説をします


> 「青東風ぬ」ってどういう意図があるの?


 まず、青東風(あおごち)の意味ですが
 これが不思議なことに、方言絡みなのかは知らんけど、二つの意味合いがあるようです

 ・雲ひとつない晴天に吹き渡る東風(初夏)
 ・土用のさなかに吹く東風のこと(土用東風)
 (但し、三夏とした扱いには無い)

 ‥ちなみに東風(こち)は、春に吹く東からの風です(九州・関西地方特有??)

 感覚としては、青東風の季語感は初夏にあるらしく
 「青嵐」に含まれる場合もあるが
 「青嵐」が爽快で清涼な風なのに対し、「青東風」は蒸した感じが伴う‥そうです

 (それがどういうわけか、転じて土用東風と同じ扱いになっているという謎)
 (土地土地での感覚の差が伴ってあるんでしょうかね??)


 そして、助動詞「ぬ」ですが
 体言に付けるという大胆な‥なんちゃって動詞化により、脳内で解釈に混乱が生じます
 (風立ちぬ‥みたいな)

 ぬ‥完了・強意・並列の意味をもち、ナ変型の活用で、活用語の連用形につく
   な/に//ぬる/ぬれ/ね

 ず‥打消しの意味をもち、特殊型の活用で、活用語の未然形につく。
  (ず)・ざら/ず・ざり/ず/・ざる/ね・ざれ/ざれ

 ‥とした二つの「ぬ」のどっちなんだ?とした混乱です


> まぁ偶然にも場面として
> 再オーディションなので、最初に受かったAさんと通らなかったBさんと居るわけです
> その音を講師の私だけでなく皆さんで聞き比べて選びましょう‥とした下りです


 その時注意しなければならないのは、どちら側の心境を詠んだのか?‥であります
 なので、双方からの心境を表現しなければならない状況でもあります
 でも、一行で成立させないとダメなんですよ(なんというツッコミ)


|再選に挑む音色も青東風ぬ


 上の句を俳句風に詠み止めると、助詞「に」「も」の繋がりから
 チャレンジャー側の心境に聞こえます
 するとその次の「ぬ」はどうしたって、青嵐よりに非ず土用東風よりだった
 という不思議解釈が成立するでしょう

 「チャレンジャーとした私の音色は、通過者と比べると今ひとつに聞こえてしまうのだなあ」

 という感触を見せるのですが
 下の句の視点は、どうしたって講師の感想です‥すると‥

 ‥通過者の方の音色に対して講師が
 オーディションの時と何ら変わらず安定した音を出しているなあ
 「いい音はいいと言わざるを得ない」‥他の部員も同じように理解したはずである

 という意味に化けているのです


 つまり、チャレンジャーの気持ちとしては、否定の助動詞「ず」の連体形「ぬ」を思わせつつ
 講師とした側の下の句の視点が加わると、途端に
 完了・強意・並列の助動詞「ぬ」とした‥澄んだ音だなあとした青嵐よりの意味に絞られるのです


> なんというたまたまの偶然!珍解釈だろうや‥(ちゃんちゃん)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:33 | Comment(0) | 短歌・俳句・川柳 | 更新情報をチェックする