記稿.2023/09/16
> ズバリ、しがらみとした流れのことを指しているのでしょう
‥八正道の@正見(正しい見解)、A正思惟(正しい決意)、B正語(正しい言葉)
とした中身自体が、人間関係でトラブルを生まない為のポイントを述べている‥みたいな
さらに、 C正業(正しい行為)、D正命 (正しい生活)、E正精進(正しい努力)
なんてのは、「あなたは何がしたいですか?」とした問い掛けに聞こえなくもない
さらに、F正念(正しい思念)、G正定(正しい瞑想)
なんてのは、「あなたの理想はどこを目指していますか?」なんてツッコミだろう
> 「生」の苦しみと「死」の苦しみが両天秤で等しい扱いなら
> 死後の世界にもしがらみが有るどえす(逃れられないフラクタル構造どえむ)
‥だがこれは、現代人が俯瞰した場合の仏教観だ
昔に仏門に入って修行してとしたセオリーで眺めると、混濁した意見としてツッコまれるだろう
> ところで、釈迦はいつから派閥苦、組織苦に悩んだのだろうか?
王子の頃から、「また戦争やってるよ馬鹿なんじゃねぇの」などと思うお子様だったのだろうか?
それだったら、しおらしく‥師を求めてあちこち尋ねたりしたのはなぜだろうか?
まぁ王宮暮らしが億劫だった向きは見られるにせよ、結婚もしたし子も居たしで
なんだかんだと、周りの空気に流されているというか、座り込んでいた様に思われる
でも、全部投げ出して、独学を始めたわけである
(実際には、霊が降りてきて教えも受けたのだから‥其を終わりまで独学だったとは言わねぇ)
‥現代人からすると、馬が合わない・反りが合わないからそうせざるを得ない選択肢
に見えるのだろうけど、純粋な探究心に突き動かされている人に
派閥苦も組織苦も、とくに気に留めてなんか無い(関係ない)
> では、いつ頃から「生老病死」を唱えたのだろうか?
これには、正しい死の概念として、あの世に付いての理解を得ないと
只の妄想・願望・偏見とした見方になるばかりなのだから
修行も進んで、理解を得た後と予想する
「改めて俯瞰すると、生きるのってこんなに苦しんだ、ハードなんだなぁ」とかなんとか
(そして、それには確かな裏付けとした事象が潜んであった‥)
(宇宙の歴史はそれこそ糞糞糞でどうしようもない実際だった‥みたいな)
> だが仏陀として、「人生とは本来楽しいはずのものなんだ」
> ‥なんて言ったのか言ってないのか‥
謎めいて紹介されてあるのが、「仏国土」概念である
(そうに語っていないなんて不可解なだけどえむ)
そもそもにして、仏国土の到来を叫んでいたのが大乗仏教くさいわけだし
そっちに嗜好が傾いていると、どうしたって
座禅とした修行なんて、すっとこどっこいべらんめえだったはず‥
だがしかし、そんな話は1ミリも聞いた試しがねぇ
結局は、派閥割れした所の大乗なわけだから、弟子達こそ、派閥苦・組織苦を抱えざるを得ない
> そしていつのまにか、仏国土とした概要だけが一人歩きする所となり
> 悟りさえすれば入れる極楽とした概念にすり替えられたくさいと‥
> (それの劣化恐怖終末強調版として登場してきたのがキリスト教だったくさいと‥)
‥折角、「生老病死」と唱えられてあるのだから
悟れなければ、それはそれで地獄に片足も同然なんだし
「本来、人生は素晴らしい」だなんて教えなくても良いじゃないか‥みたいな
(バラモン教=カースト制度社会でもあったわけだし)
(私たちは、そういう糞な端折りをやらかす不誠実な世界に生きざるを得なかったという下り)
> 端折りをやらかせばやらかすほどカルマが歴史算として巨大化し
> それの解消として、日々、トラブルまみれの対処・対応・対策に振り回されるどえむ
> それにしたって、やってる感だけの組織もあるあるなので、カルマは増える一方どえす
(著生は、カルマとは、世界樹本来の絵図(実りたる味わい)から逸れる事だと思ってます)
(諸々悩ましくなることで、選択し難くなる心の弱さとした積み重ねこそカルマ‥みたいな)