2023年09月19日

【ネタ文学】異世界をそれこそファンタジーらしく平和に描く為の着眼

記稿.2023/09/19

> まぁ所謂、魔王存在に対抗しようとすると
> すべての王家は脳筋火力主義にどハマります
> すると、戦をする為に税金を搾るという搾取構造から逃れられなくなるどえむ


 ところが、程々に安定した平和をもたらすには
 その国主らが、脳筋火力主義ばかりでは困るわけです(戦争すりゃ人死ぬし)

 それこそ、国王として君臨する中に、土木チートとした天才が必要です
 その手の才を受け継いだ王族が必要です

 国王が、王家が、何でもかんでも土木チートを駆使して国の母体造りをやってしまう性格なら
 その税金は、確実に市民の見返りとして反映する事でしょう

 (但し、土木は見た目としての仕事に見映えはあれど、終わってしまえばそれまでです)
 (王様がその後にも土木として仕事を斡旋するよりは、アートに内職して貰う方がルネサンスです)
 (古代の其の代表は彫刻です、それもなぜか巨大彫刻でーす‥土木工事と変わらねぇ‥)


> ここの発想の切換をせずに
> 魔王問題云々といつまでも抱えていては、胡散臭いファンタジー止まりのままどえす


 地下資源採掘とした文化の代替としてダンジョンがあり
 脳筋火力が頑張らないとスタンピードが巻き起こるとした筋書きは
 城郭文化を必然とする意味でもとても重要‥

 それに、土魔法によるアート文化を加え繋げることで、貴族の装飾好きもそれっぽくなるどえす

 但し、土魔法の辻褄として土魔法師の魔力量は、火魔法師の魔力量より平均値が倍以上とした
 バランス感覚が求められてきます(そういう辻褄が重要)
 なので、土魔法師は攻撃力が無いそれを、創意工夫で日夜魔法使いらしく切磋琢磨する‥みたいな

 衛兵やら近衛兵とした脳筋火力派は、絵に描いた様に警備や訓練とした名目で褒賞を得られますが
 土魔法師の場合は、土木を主体とすれど、それをずっと続けられる辻褄に無いのだから
 別の所で切磋琢磨する必要になるどえす(ぶっちゃけ器用貧乏なんでも屋)

 無論、この感覚やら才覚が、王様や王家の側にも無いと成り立ちません


> つまり、本来の異世界とは
> 脳筋火力主義VS土木&芸術上等主義の入り込んだ押し合いへし合い中世風みたいな
> ‥神世とした暮らしをしていた所に魔王登場みたいな流れくさいどえす


 現代社会で言えば「魔王」=「軍事科学」でしょうね
 (儲ける脳にしか無き科学なんざ魔王も同然だ)


 だがしかし、その土木云々‥有るべき役回りをドワーフという種族で片付けてきたわけですから
 思考停止に陥ってきたどえす

 そこのドワーフとの違いを演出しようとすると、そりゃまぁ、寿命の長さから
 熟練したドワーフのそれは、それこそお婆ちゃんの知恵袋みたいな取り扱いになるでしょう
 (エルフにしたって同じでしょう)

 其を逆に見れば、人の年齢と差無きドワーフやらエルフなんて人並みという次第でしょう
 でも、見た目の特徴が甚だしいので、お互いに交わりがたいプライドを抱え持つどえす
 (ヒト族の王家にしても、ヒト族同士が好いみたいな比重が高いどえむ)


> 歴史的な経過で問うなら、ヒト族の方が圧倒的に繁殖力が高かったので
> ドワーフやらエルフの影が薄くなるのも、織り込み済みだったみたいな
> それを阻害する効果を持ち合わせたのが、スタンピードみたいな


 魔王なんて無理して描かんでも、お調子者のチート火力馬鹿が居るだけで代替と禍する
 でもまぁその手の歴史が無いと、言葉として創出されないどえす(悩ましい!)


 (そういう社会構造にしてしまえば、難しいことを端折って描けるかも‥)
 (それにしたって、土魔法師たるアイデンティティーの投入は、その都度に欠かせまい)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:31 | Comment(0) | ネタ文学 | 更新情報をチェックする

【ネタ文学】矛盾こそ摂理か?

記稿.2023/09/19

> 真我と自我を野球に例えてみよう


 いつでもホームラン打者(打率十割)
 いつでも三振ピッチャー(防御率十割)というのを、誰しも夢に馳せるわけだけど

 そんな王者の心理を想像してみよう

 ズバリ‥「野球なんて簡単でつまらないスポーツだよね」とそう思うに違いない


> そこを慮れるか否かが、真我と自我の相異に他ならないかも知れないな
> (自分自身に対しても、他人に対しても)


 ‥ところが私たちは、そうあれたなら格好いいだろうなあとしか頭に無い
 ‥不滅の記録を打ち立てられたならスゴイだろうなぐらいしか頭に無い
 ‥上手ければやるべきとしか頭に無い、それが才能だとか、贈り物ぐらいにしか頭に無い


> つまり、凡才ゆえに夢馳せる私たちは、そこを推し量れないので自我が濃い(エゴ)となる
> とくにお子様の夢見がちなそこん所なんか、とても自我が濃いことになる


 (‥自我を薄くしろなんてのは)
 (実のところ‥子供や青春なんかそういう意味では‥全然可愛くないと言っているような話だz)


 他者に「生きることは素晴らしい」類の口を叩いておきながら
 てめえが極まってしまうと、途端に窮まったかの様に「つまらないよね」と吐き捨てる

 この卓袱台返しとしたモチベーションの低下こそ突然としていて恐ろしいわけだけど
 人それぞれなんでまぁしょうがない(他者を理解する為にも色々と心は揺れるどえす)


> 下手な側からすれば、羨ましいくらいに下らない悩ましさな訳ですもん
> そして下手ゆえに、上手の悩ましさなんかお構いなしに憧れるのだ
> (自慢し・されるぐらいが楽しいひとときかも知れないのに大変な線引きだz)


 (だがしかし、そこに興味を持ち合わせない御仁もまたゾロゾロと居そう)


 でも、私たち側が、なぜ王者とした側に憧れるのかというと
 肖りたいから、勝利の美酒に酔いたいからに他ならない

 そういう色の付いた様をエゴというのであって

 絶対無敵なんて有り得そうに無いからこそ期待したくなる‥みたいな
 糞謎めく心理に突き動かされてもしまうのだ


 さらに言うと、その手の常勝とした色を付けたくなる欲求に濃い輩ほど
 期待外れだったりすると、難癖やらケチやら悪態を吐くのが大好きだったりするどえす
 (とても不思議な人達です、掌返しがご趣味みたいな)


 ‥誰にだって未熟を感じるという幸せも有るからこそ
 エゴに絡んだ自我の側の世界に居られるという話なわけですから
 それに対して悪態を突っつくって事は、真我の側に追い出したいオチみたいどえす

 (居なくなりやがれとした意味は同じなんでしょうけど、まぁ、こんがらがってきます)
 (宇宙的に見込みがありそうに見えるから、そういう空気を引き寄せちゃうみたいな)


> これを文学のネタとして捉えると
> 悪態を付くような輩ほど、油断が付いて回るのだから、それに馬鹿にされても
> 頑張って喰らい付けば、踏み超える可能性はゼロでは無い(超え行くのは当たり前)
> とした形はありきたりなのでは無く、アイデンティティー次第だ


 ‥つまり何が言いたいかというと
 「失敗こそ面白い」というと角が立つが
 「失敗もあるから面白い」という矛盾こそエゴの世界だというオチどえす

 (仕事のモチベーションが上がらないのは、その矛盾を否定してしまうから‥)
 (「失敗をしてはいけないのだ」とのエゴは、おいしくないし、おもしろくもない)


> エゴを薄くするとは、エゴにもおいしいとおいしくないがあるので理解しましょう‥みたいな
> (そこに好みの差がまたあるという無限性‥其は、成功と失敗とした矛と盾の差でもある‥)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:29 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする