2024年02月05日

【哲学】意識を道具過程と定義すると、意志の発動を以て「私」とした扉の前に立つ段階なのだろう

↓2)記稿.2024/02/05

> 「意識」を道具として用いるのは「私」である
> その私には目的が備わっているはずである、其を発動している様を「意志」とでも定義しよう


 ‥夢見の世界をうろついているとつくづく思うのは、意識が健常に働いていないことだ
 すべてにおいて思いこみの方が強く優先してくる
 確実に確かめているわけでも無いのに、あれはあれと思い込んだらずっと仮定のそれを信じ込む
 誰かに似ていると思っただけで、知り得る彼、彼女と位置づける
 私の場所(家、部屋)と思ったら、そう信じ込む
 目覚めてみれば、あれは夢の中だった‥あんな場所をどうして私の‥‥と思い込むのかほんと謎

 そのような思いこみの作用する状況はどうしたって、流されているだけなのだ
 もっとも、夢を只見るだけの目的意識しか無いならとくにそうなるのだろう
 (ただ何となく生きているのと同じで、漂うばかりだ)


 それとて‥ぼっちで歩き回っている際にはとくに問題は無かった
 でも、他者が絡んでくるとどうにもそうには行かなくなる
 どんな目的で絡んでくるのか謎なのにホイホイと着いていくわけにも行くまい
 (子供じゃあるまいに)

 だが、夢の中を観察していて、分かれ道に差し掛かったりすると悩ましい
 のぼりかくだりかで語るなら、くだっていくとろくな事がない(世界が薄暗くなるからだ)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:21 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする