↓2)記稿.2024/02/09
> ただでさえ開墾が大変なのに、城を建てるのに有位な耕作地を潰しては意味が無い
> そのせいも有ったのだろう‥山城というか高台は城を建てるのに有力候補だった
‥では問題どえす
信長の始めた「家臣集住」にもそれに準じた意味があったとしたら?
それ以前にも城下町構造は日常だったかというと
攻め込まれにくくする為に、道をぐねぐねと敷いていたりしていたのだから
まぁ京の都に習うような城下町構造は、攻められやすいし金が掛かるとして避けられていたくさい
そこを「家臣集住」とした機能性に的を絞ったのだから
「兵農分離」と併せて考えれば、治安と戦時をひっくるめて合理的に置き換えたのだろう
結果、京の都とはまた違った意味合いの城下町を構成していた
自動車で運ぶ時代とは違うので、商人にしても運ぶ荷を選り分ける上で機能的に見えたはずだ
(その意味でも織田領の軍事は、他領より機動性が高かった)
(いずれにせよ信長は、戦争やらかす気満々だった)
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