↓3)記稿.2024/02/15
> 魔法もプログラムも生体も一緒だとすると何が違うのか?
> それは、書き込む媒体と、投じる魔力としてのエネルギーの導通と転換と確保に尽きる
‥魔法の場合、願いを書き込むべき媒体は何だって良い、術士が好みとする何かで好い
それに特定のエネルギーを固定できればそれで良い
だが、保持する為の力を添付しなければ、一つの命令を終える度に消えるだろう
‥都度消えても良いのか?‥常に保持したいのか?
という所に膨大なエネルギーを注ぐべきか否かというのが
式神とゴーレムの差になっている‥みたいな
> 単純に、媒体は言葉でも、文字でも、模様でも、音でも、絵でも良い
> 術士が好みとする願いや術を植え付けやすくする為の措置として媒体を用いるだけくさい
> そこに更に、特定の発動エネルギー源を固定して備え付けるのだ
‥とくに、魔道具としてのそれらは、自ら動く用途に無きゴーレムと同じだ
但し、毎回もしくはある程度利用するとエネルギーが尽きるので補充の用に晒される
‥例えば、補充としての形を毎年に新しく造り替えるとすれば
儀式や七五三縄などなどを‥その類に見立てたとて問題無し
(その昔に、誰が何を意図して発案したかなど誰も知らないわけだけど)
> これら当たり前な構造とした使い方を
> 私たちは、日々の暮らし向きにも同じく用いてある(なんとなくだが‥)
> 其にサブタイトルを付けるなら「無駄な努力と機能する積み重ねとの差は何が違うのか?」だ
つまり、プログラムとして植え込むべきは、てめえ自身への行動様式(宣言)であり
発動へのエネルギー補充には、それの繰り返しを要求する(実践)
(健康と筋トレの関係はとくにそれだ)
(筋トレしねぇで、医食同源やら薬に頼るばかりかぶれが非効率なのは当然だ)
(なぜなら、肉体を動かす発動の意思こそを鍛えずして、発動するよすが無し)
(用途とやら組み合わせにもよるが、低周波振動任せなんざ筋肉に意思を培うには程遠い)
> 宣言に対して実践を重ねる‥発動の意思を鍛える事こそが魔法の始源でもあるくさいのだ
その次に、プログラムとしてもエネルギーとしても欠かせないのが
何を願ってどちらの方向を向いているかになる
単純に、願った形を引き寄せる為に
毎日の日課なりルーティーンな繰り返しを課する形式だ
何でも良いから、これを得る為にこれを日課にして実践する‥と宣言する必要がある
まぁ呪文のような効果を担うのがここでの宣言になるわけだが
途中でうけうり概念やら、やる気の低迷やらが入り混ざり
目的とした中身が、すれ変わったりブレることにもなる
其を正し、その都度に修正し得る精神力も問われてくる
> もっとも、常識的にみて、目的と方向が適っているべきは外せない所だが
> できる範囲で願掛け的に積み重ねるだけでもそれなりの効果はある
> まずはその差の変化を20年ぐらいのスパンで理解できるか否かでもある(性急さなんて無駄)
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