2024年11月09日

【ボケて痛っ】最低限度の文化的享受とは何か?

↓7)記稿.2024/11/08

> ステータス自慢したいから、自分に見合った幸福の創造をやらかしたい(競争派)
> 公平たる番人×最低限度の文化的享受(生存権派)


 ‥かつて米ソ冷戦に副えられていた「資本主義vs社会主義」が、今や
 「競争派vs生存権派」方向での政治的議題として世界を駆け巡っている

 ‥でもまぁ実際は、一部のエリートが勝手にシナリオを描いて格差社会のままに誘導するので
  彼の者らの掌の上で、多様性ありきとした暮らし向きをやらされているだけらしい
  (しかも、より糸が絡まるように、絡まるようにと仕組まれている)


 ‥まぁそこは置いといて

  競争派の主張は、頑張れば報われるべきとした考えに基づくわけだが
  勝ち続けてしまうと、どうしたって、強い者が弱い者に従うべしとした暗黙の了解が始まるのだ

  それらの多くの経過の中には

  早い者勝ちとか、言ったもん勝ちとか、騙された方が悪いとか
  勝つためには手段を選ばないとした
  豊かさを手に入れる為の必死の筋違いやらマナー違反もあるわけだけど

  その手の指導者&王者という奴は、調子の良い時は平たく正義な態度を見せるけど
  いざ行き詰まってくると、交代したくないとばかりに、勝手卑怯な振る舞いに奔るのだ
  それこそが‥バレなきゃ好い、もみ消せば好い、改竄すれば好いとした情勢だ

 そのような習性は、世襲やら血統やらのお家を土台にした‥上様優先な脱出癖から来ている
 (チェス・将棋にしたって、それの名残を刻んでるゲームだよ)

  王族なら、家臣や国民が率先して、一家一族の脱出に協力してくれるものだとした錯誤を
  民主化の世界にも持ち込んでしまっており、その手の甘々に期待してやらかすのだ


> 貴族社会でもねぇ、君主制でもねぇのに、軍隊ながらの階級制度とした流れからも
> 其れに擬えてしまうらしく‥やらかすらしい
> つまり、下位の者は上位の者を助けるべく、駒になるべきだという主張の正当化なのら
> 其れの一番に過激な様を見せつけたのが、関ヶ原の戦いの際の島津軍の脱出劇だった


 (まぁ其は戦国の世なんで罪に問われないどころか、忠義に対する評価を得るばかりどえす)

 ‥だがしかし

  民主社会に「捨て奸(すてがまり)」なんて必要ねぇ
  民主社会に「神風攻撃」なんか必要ねぇ

  誰だって民主社会に対してそう思うだろう

  でも、競争を支持していると、それとは真逆に副作用として亡霊の如く蟲くのだよ
  (国民主権なんざ、借金するための名義みたいにな)


> つまり、競争主張には、始めから公平公正とした思考なんてねぇのさ
> 其に錯覚を渦巻きて、勘違いにも支持やらかすのが選挙制度だ(ある意味で思想自由だからな)


 ‥それで不公平すぎるし
  どうにもインチキ臭いとした流れから公平たる番人を希求するわけだけど

  では問おう、公平たる番人としたそれの基準とは何かね?
  正しさの基準とは何かね?

  仏陀でさえそこは煙に巻いており、具体的な説明なんて一つもねぇ
  どんな哲学者だろうと、てめぇの信でしか問えてねぇ、てめえ向きの正義論が在るのみだ

  (早い話が、哲学者以下は、すべて彼らのうけうりにござい‥と言ったら角が立つのだから)

 そこで私たちの民主主義では多数決を取るのだが、盗れば好いとした考えの輩も雑ざるのだ
 それこそが、弱肉強食とした考え方であり「競争」に折り込まれても来た目論みありきだった

 (まぁそれでも戦争よりは経済戦の方がまだマシなのだが、環境破壊の実情を鑑みるに)
 (どちらも変わらねぇと言わざるを得ず‥それが人間のどうしようもねぇ本質だった)


 ‥なのだから単純に
  弱肉強食をも含めた多数決を以て民主主義と呼ぶのか?
  そこはルール違反なのだからとして、外した上での多数決を以て民主主義と呼ぶのか?
  とした差から‥まずは判定せざるを得ず

 つまりそれが、「競争派vs生存権派」とした段階でしかないのだよ


> どちらかというと「公平たる番人とは何か?」とした問いに、誰も答えられない以上
> 生存権派の側に大いに不利が付き纏うのだ(なんだかんだのなぜか不人気どえむ)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:48 | Comment(0) | 日記/2024 | 更新情報をチェックする