↓2)記稿.2024/12/04
> 日本人の人権に対する気概とは、「地獄に仏」である
> 一方の西洋発祥の人権論のそもそもは、奴隷の管理の仕方ありきに思われる
‥「地獄に仏」を実現するには、各々が己の信じる道を進んで、世の為人の為を為す方向性を指す
(備えが無いなら、日常の仏頼みからして頭から無理ッ)
なのだから、主君と家臣の関係において不都合が出ない範囲で領地を活用せよ‥
とした概要を構えていた‥
それが、戦国から江戸の世に引き継がれた武士の仏教観だった事だろう
‥だがしかし、そのような視点から西洋発祥の人権論を問い出すと何かが怪しい
そもそもの人権論のバックボーンにあったのは、産業革命の際の雇用確保だった
その際、安い雇用で以て生産効率を上げていく為には
どうしたって、奴隷階層を含めたすべての民衆に対して、社会教育が求められた
&「どのような仕組みを採用すれば、彼らはその気になるのか?」とした思惑ありきだった
‥それ以前の奴隷概念としては
人口そのものが少なかったのだから、奴隷人口の拡大からして課題があった
中でも一番に手っ取り早かったのが戦争孤児のような孤児を救って活用するとした見方だった
だがそれとて、実の子以上に愛情を注ぐ事など有るわけも無し
(日本のそれにしたとて水呑百姓とした下層を形成するに留まった)
その際に、彼の者らをどのように扱うかは、持ち主の自由だった
それでも、世間で得られる奴隷の数が少なかったことから
奴隷数を減らしてしまうだけの様な、杜撰な扱いは望ましくないとした見方は普通だったろう
それにしたとて、それは規模とした概念から来るだけであって人権云々とした様相に非ず
そもそもにして、奴隷の持ち主に無理強いも出来ないのだから
「生かさず殺さず」とした合言葉の様な意味合いに留まるばかりだったろう
なのだから、西洋に「地獄に仏」なんて期待感は皆無だった‥
その代わりに機能していたのが、教会云々な表向きの慈善活動だった事だろう
> そげな状況以前に、奴隷を確保するために積極的に動いたのがローマの帝政だった
> (其は、私たちに植え付けられている奴隷観そのものになった)
‥そのような奴隷観は中世の間に、延々と続いていたのに、突如として市民革命が演出され
あれよあれよという間に人権憲章なんて代物が登場した事に成る
(そして、西洋独特の城郭都市とした街並みの姿も一様にして消えたのだった)
‥その当時の善の人間観とやらが、世界名作劇場に描かれている様に思われるも
名作劇場の随所に登場する富豪と庶民との差についてにまではツッコんでは居まい
それは既に過去形じゃんと問わざるを得ずも
それでも私たちは、その辺を気にすることなく名作として扱っている
(時代の狭間の矛盾というかジレンマというか‥それは、それでしかないからでもある)
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