2025年01月02日

【ボケて痛っ】問いが生くる生物なら、答えも生くる生物なり

↓3)記稿.2025/01/02

 人生の中で同じ問いを何度も繰り返す
 これで十分満足とした解を得る場合もあれば、そうで無い場合もある
 どちらかというとそうで無い場合の方が多い

 その場合、解は、保留・先送りとならん

 同じ問いにしたとて、解はほぼ同じでも
 加齢と共に見方が違っていたりする、其は、解き方・説き方が変わる様な話だ


> 何度も何度も、馬鹿みたいに、同じ問いを繰り返す(其はとても不思議な事象である)
> 其は誰しもの中に、教師と生徒の役回りが存在するかの様な悩ましさだろう


 ‥私が先生の立場なら、生徒が入れ替わっている様な中身だ
  私が生徒の立場なら、先生が入れ替わっている様な中身だ

  先生の立場なら、理解させたい・してもらいたいと思うだろう
  生徒の立場なら、こちらが納得するまでやり込めたいと思うだろう

  (其は、善と悪とした対峙にも見えり)


 ‥だが、これを職業に置き換えてみると、請負と依頼の関係にも見えてくる
  そこにあるのは、課題と対応だ

  それはそれで、同じ様な課題が続くのも不思議なバランスだが
  時には、難題が降ってくる場合もある
  時には、同じと思って同じ対応なり処置をしたとて結果が違っていたりとせん


> まさに、問いが生きているなら、答えも生きているかの如しである


 ‥この世の全てが斯様にも
  入れ子式・フラクタルな形状として、生命側の思慮を刺激し続けるとするならば
  生命の存在性とは、事象の繰り返しを余儀なくし、仕向けている何かなり


 ‥己に限界を感じて無理として投げ出していると
  入れ子式・フラクタルな形状として、同じ馬鹿・あきらめを繰り返すのが定めとなり

  限界を突破せんとして、どのような選択をするかもまた
  入れ子式・フラクタルな形状として、同じく繰り返すのが定めにならん


> ならば


  その区切りなり端境を選べるとした認識を抱くか抱かないかの差と
  抱いた後に、何らかの創意工夫なり行動をするかしないかの差が大きくもあるのだろう

  だとしても

  工夫をすればするほどに、その必要に追われるとした怪しい構造とも言えようか
  行動をし続けるにしても同じ事なのだから
  前に進むことしか頭に無いとしたパターンも又あきらめ同様に、自らの首を絞め出すのだ

 多様性を己の中に持ち込めない者から尽きやすい(厭きやすい)とも言えそうであるな


 ‥世界が、構造的且つフラクタル色な化け物として
  生命側の活動を取り込もう・折り込もう・擬えようとするならば
  どうしたって
  「yesとno」「onとoff」「アクセルとブレーキ」を細やかに使い分けるべし


> 其を怠る者に幸福などやってこない、来たるは降伏(依存)のみとした次第らしい
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:53 | Comment(0) | 日記/2025 | 更新情報をチェックする