↓4)記稿.2025/01/09
> 記事1:「僕には生活費すらない」地方公立校から塾ナシで東大合格→仕送りナシで“貧困生活”…地方出身の東大生が、入学後に突きつけられた“厳しい現実”
> 記事2:“エリート育ち”の東大出身者は「普通の日本人」を知らない…両親高卒・地方出身の“苦労人”東大生が、大学入学後に抱いた違和感の正体
‥↑の記事を読むに
エリート層の考える多様性とすそ野庶民の考える多様性には、隔たりが存在せり‥‥
ということで、その違いとやらをお題にしてみた‥
‥例えば、マンガ・アニメでは、ツンデレ富裕層と庶民主人公との接触とて、普通に演じられる
すそ野庶民からすれば、もとい、制作群やらオタク群からすれば
これこそが多様性だ‥とかなんとかバイアスが掛かるわけだが
現実ではなかなかそうに非ず、それはなぜだろうか?
‥単純にエリート側の考える多様性が、技術の融合・応用・複合とした方向にしかないなら
そこにあるべきは、合理性×有用性×有益性であり
結果的に、真新しさは誕生すれど、活用段階での理解を得られるかは経費都合に左右されり
そして、それがエリート側の椅子取り競争を兼ねた最もらしい多様性・変化性方向だとすると
お互いに鎬を削れば削るほどに、不思議なお約束の如き閉塞方向へと向かうのだ
なぜなら、それこそが
需要の先食いよろしくな、合理性×有用性×有益性としたやり口の流れだからだ
(儲けてこそ、カネを動かせてこそ、エリートの椅子に座れる‥みたいな)
‥結果、新しく便利な何かが登場すると
「ローカルな技術なんて要らないよね」とした勢いとともに、そぞろに廃棄提案にも及ぼう
エリートのやらかす多様性には、なぜかその手の供給手段の選別までを含むのだ
> 著名人でさえスマホ一つで十分だとかなんとかの片手間で‥多様性をドヤ顔で主張する程だ‥
‥其は、どう考えたって多様性とした見方を履き違えている
それの呟きは、スマホを介した多様の可能性なだけであって
現実的にはまだまだ未成熟×不整備な状態のそれでしかない
発展途上×理解度不足とした全体像がまるまる抜けているにもかかわらず
誰しもが器用に扱えるとは限らないのに
呟いたエリートの使いこなしレベルを基準にして
ある程度の成功例が挙がろうなら、ローカルな技術の不要にまで繋がっていく有り様だ
「これからの時代はこれです、皆さんのお仕事も便利に様変わりするでしょう」‥みたいな
‥性急すぎる其れは、どうしたって多様性に理解があるとは言い難い
&てめえがエリートだからこそ、それだけ使いこなせているとした自覚もねぇ
&新しき利便性を全ての者が扱いきれるとは限らない
「古いと思ったら他の全てを捨てるのもあり」なのは、あくまで個人の自由の範囲であり
「社会全体としての必要性がゼロに成るとは限らない」とした前提を無視している
‥とはいえ、社会現象として、過半数が同意しようものなら
スマホの様に影響力が強い事象ほど、其れとした流れを醸し
「右に習え」になって行くのだから、どうしようもねぇ
結果、エリートだろうとローカルな技術を忘れていくのだ
(其は、被災した際に、天秤棒を使って運ぶのもありとした意見が出て来ないのに等しい)
‥エリートだろうと誰だろうと、社会現象として片寄りすぎた後のことを誰も知らん
一世代前の技術で言えば
誰の目にも使い勝手の明白だったポリ袋やらプラスチックとした変化でさえ
最終的にはマイクロプラスチック問題を招くに至った
かつて空き缶のプルタブ問題にしても、そもそもは、人類のポイ捨て癖から来ている
今やエリート層が、技術のポイ捨てをやらかすほどなのだから相当なのら
(3Dプリンター技術さえ有れば良いなどと抜かす科学者もいる程だz‥)
(宇宙対応とした意見らしいが、汗を掻きたくない人の発想すぎて糞)
> 結論としては、こう問える
{掃除&整理整頓を疎かにする様なマヌケ}
={古き価値観を保全できかねる脆弱性}={環境を含む全体に及ぼす調和意識の低さ}
‥どうにもエリート層にはその怪が強いらしい(坊っちゃん嬢ちゃん育ちなら尚更草)
&利権混じりにも、コスパから、古きを新しきに置き換えることに夢中で
其を多様性とした方向だと思い込み、モチベーションとしている節がある
結果的に、人付き合いにおいても、目的やら目標に適った人材との交流を好むのが流れで
其も又‥すその庶民の思う公平×尊重なお付き合いからの多様性とした見方やら要求とは異なり
それこそ、自分たちの目指す方向性から外れた人達は置き去りなのだ
> どうしたって斯様な流れを多様性とは呼ばん
> だが富裕層にはローテク好きも登場するのだから、技術的には保存性を示すっちゃ示すわけだが
> そこに騙されている節もあるのが、多様性とした言葉の一人歩きなり
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