記稿.2025/03/03
> 何だかんだと西洋史に影響を受けているのが、未だ異世界の宗教観どえむ
> そこでてめえの創作でも必要なので、お子様にも違和感の出ない基準を考えてみたん
‥世界樹教(仮)の狭義のあらまし
お腹いっぱいに食べんと欲す行為は、とても素晴らしい姿である。
但し、お腹いっぱいに食べるには犠牲が欠かせないことから
まずは労働という名の犠牲(対価)を自ら捧げるべきである。‥と説く
世界樹を始めとしたこの世界の神々は
私たちの暮らしに食べる行為をもたらして居ると同時に
食べる行為のみに限らず、その文化背景たる諸々にも美意識を見出すべしとして
‥問おうて居られる‥‥
ゆえに暮らしの隅々にまで多様化がもたらされるべき要望は必然な成り行きであり
よりおいしい食べ物を求める行為
お互いに気持ちの良い食生活を保つための心得への理解
並びに、各々に授かる能力の適切な活用活性と扶助理解も‥それら必然たる内の一つなり。
おいしい食べ物を前にすると
ついつい独り占めしたくなるものだが、私たちは分け合うべきである。
それ故、その為にも、私たちには、共に分け合えるだけの切磋琢磨が求められている。‥と説く
> 神扶院(信仰&教義が中心) vs 聖扶院(扶助と癒やし活動が中心)
‥神扶院派の曰く
世界樹を始めとしたこの世界の神々が
この地に王国を栄えしは、王国が民草に適切な労働を担わせるにたる要としてなり。
故に、王国が民草をスタンピードを始めとした有事から護るべきは
天より授かりし責任と使命なり。
貴族とはそのような立場の者らを指し、我ら神扶院とした担いも同じである。
とくに我ら神扶院は
この世界の歴史の成り立ちを説き、記録し、其を修め
神々からもたらされし‥王国人民各々の能力‥の把握と研鑽の必要を説き
其れのもたらす変化に寛容を示す立場にあり
と同時に「天啓」を授かる立場なり。
‥聖扶院派の曰く
世界の理が如何なる次第にあろうとも
私たち聖扶院は、扶助と癒やしの精神を以て、困っている人々の救いの手になるべし。
但し、その為にも、汝の研鑽とした「平和への祈り」を欠くべきに非ず。
また、扶助と癒やしの担いを全う出来るように、暮らしへの健やかさを忘れるべからず。
「如何なる困難にあろうとも、世界樹の光は降りて来たらむ!」
‥というところで
> 神扶院派は、天啓を背景にした威光を貴族側に翳し、王家との関係に厚く
> 聖扶院派は、有事の際の癒やしに動員されることから軍人からの支持が厚い‥草
では、聖女とした概念はどちら寄りだろうか?
‥神扶院派の聖女に求められる能力は‥天啓云々から‥巫女に近いモノだろう
又、能力鑑定とした立ち位置を担うのだから、勇者召喚の儀にも係わってそう‥‥
ゆえの魔力量とした器も求められる草
‥聖扶院派の聖女に求められる能力は、それこそ癒やしの奇蹟の其れだろう
当然ながら、庶民人気はこちらにあり
癒やしゆえの魔力量とした器としても申し分なきとも有れば
神扶院派からの嫉妬を買う所なのだから(座する巫女の性格にも因るが)
事前に、能力の儀の段階から管理され、不遇に終わるパターン草(謎すっきり)
なので、何だかんだと、時は来たれりとして隠れた所から
唐突に天命に目覚めるのも、「癒やしの聖女」たらんノリっぽいz(あまり見んけどな)
(もとい‥棄てられた聖女を拾うのが、それに該当する草)