1-4)改稿.2014/10/20...20090702...
> 世のため人のためと理想を掲げて生きる‥
その類いの伝承を聞けば聞くほどに、多くの者が吾も続けと思うのでしょう。
それでもその理想を一字に表して「義」に生きることと、
故郷への想いゆえに生きることとは、大分違うように思えるのです。
1-4)1
> 例えば、上杉謙信はどうでしょう。
はじめのうちは自分の志を配下の武将たちに押しつけ、
頼まれればあっちに、断れないとばかりにこっちに‥と赴いては、ほぼ無償で戦を請け負い、
ついにはとある負け戦から武将の不満が爆発しております。
その後、とある坊さんから「達磨不識」の解釈を問いかけられ、
以後方針を改め、領地の拡大を考慮して動くようになりました。
その結果、昇り龍となり、配下の武将たちに土地を分け与えることで「信」を得ています。
‥結局の所
「制圧」たるやり口は、かの信長と変わらない次第になりましょうが、
故郷の民のためを思いやればこそ、何故に戦うのかを問われていた人生だったということでしょうか。
1-4)2
> 次に三国志の劉備玄徳はどうでしょう。
彼は武将としてあちらこちらを転々としておりました。
そんな彼が君主として足場を築いたのが荊州です。
荊州での民衆からの人望は異常なぐらい厚くそれは驚くばかりです。
劉備が移動すれば、荊州の民も集団となってその後について来たと言います。
「故郷の土地を捨ててまでそうさせる人気とはなんなのか?」
そこを想像すれば「誇大しすぎなのでは」と思ってしまうほどに、妙な話にも思えてきます。
‥美談にはあれども、不可解な話だと思うのは著生ばかりでは無いと思います。
それでも
人望が厚かっただろう点において、なんら疑う余地はなかったというのが実際の所でしょう。
しかしながら、彼が最後にしでかした戦はさんさんたる内容だったのです。
呉国と対峙した義兄弟の弔い合戦がそれです。
その時借り出されたのは自国の兵であっても、劉備にとっては生まれ育った故郷の民ではありません。
‥自分の実の故郷の民であったのならば、どうだったのでしょうか?
‥民衆も共にその弔い合戦とやらに積極的だったのでしょうか?
‥ある程度はそうかもしれません。
しかし、実の故郷の民であったならば、もう少し慎重さを保ったはずです。
それが地元に根ざした君主としてのあるべき姿なのですからね。
彼もまた心のどこかに、単なる義侠心からの弔い合戦とのお題目しかなかったのだと思います。
実の故郷の民でなかったからこそ、軍師が止めるのも聞かずに暴走した。そう思います。
1-4)3
> 次に映画:「ウォーロード/男たちの誓い」はどうでしょう。
‥この映画は太平天国の乱に関する内容です。
ジェット・リー扮する清朝軍パン将軍は、冒頭からいきなり全滅の将となり始まります。
その後は、あれよあれよという間に盗賊団の頭領二人と義兄弟の契りを交わし、
その800の兵を味方に従え、再び皇軍としての機会を得、紆余曲折しながら南京奪回を果たします。
そんな彼が最後に皇帝の前で求めた褒美は、百姓の年貢を3年間免除してもらうことでした。
‥その願いは叶えられたものの‥なぜかすっきりしません。
この作品中では、
力を貸してくれた盗賊団800人への見返りなど
始めから考えていなかったも同然に描かれているからです。
パン将軍は理想を掲げた人物として描かれていますが、
筋を通すならば、力を貸してくれた800人とその家族たちのその後を考えて、
その待遇をまず第一に皇帝の前で求めるべきだったと思います。
‥そう言う見方をしてゆくと、
パン将軍の胸中にあったのは、民衆に対する理想ではあったものの、
故郷でしか生きて行けない者たちへの慈しみではなかった。そう思います。
1-4)4
人生には様々な絡みがあり、その中で理想や大志を掲げるのは意義深い事だと思います。
それでも現代社会では、会社に属すなり、起業するなり、
かようなステップからはじめることが求められるばかりです。
> 「果たしてそこは故郷たり得るのか?」
‥そう問い返せば問い返すほどに、答えは"NO"でしょう。
グローバル時代とか、自身の人材価値とか、待遇の差とか、
そんな判断基準ばかりが空気を漂わせる時代に、どれだけの人が"YES"たり得るのでしょうか?
起業して取締役をする側ともなれば、
ここを足場になんとか一角を得たい‥そんな志はあるでしょうが、
どれだけの経営者が、自分の部下や社員に向かって、
ここを我が家と思っていただけているのでしょうか?
‥そう思えば、想うほどに‥「理想に凶相あり」そう思います。