2009年07月03日

民族人道

 民族人道を口で語るにしても、それを政でとりまとめて行くにしても、誰もに「これだ!」という見解を示せるものではないと思います。とくにこの場合は一民族のことを指しているのではなく、地球民族としての人道とは何か?‥どのようにあるべきなのか?を問いかけておるわけですから、なおさらに道は険しいと思います。

 とくに一昔前の人道観と今どきの人道観とは見解もまったく異なっています。
昔は今と比べれば、何もないぐらいの暮らしで成り立っていましたから、人道を通すこと=土着を生かすことでした。大局で見ればそれでほぼ釣り合っていたと思います。

 でも今はそうではありません。
「モノが無ければ無いで、有るところから持ち込んでくればいい‥」皆さんふつうにそう思っています。その結果、外来生物問題であったり、海外市場との競争にさらされていたり、大気汚染の煽りを海の向こうから心配しなくてはならない状況にあります。
 それでも、一度味わってしまった取り組みを今更やめられないとばかりにあります。

 海外支援の話にしてもそうです。でも実際、モノや箱だけの支援は本当の支援ではありません。人材の派遣から始まって、現地での技術者の育成、そしてその物事に関連した理解がその土地の人々に浸透してはじめて支援が成り立つのです。
 しかしながら支援と言っても資本主義の本質はそんな生やさしい論理を持っていません。
教わった→理解した→じゃ競争しましょうね。それが資本主義の刹那的な側面です。
 そんなのは、ちょっと子供におしえたばかりの麻雀でプロが賭けをふっかけているようなものです。それで、かわいそうだからと言わんばかりに誰かがフェアートレードを推進しましょうと言い出しているのが最近の流れです。
 実際、生活はゲームではありませんから背に腹は代えられません。それが一つの人道なのかなぁと思わせるところがあります。
 しかし、よくよく考えてみれば、それは何一つフェアーになどあれていません。
本当にフェアートレードを突き詰めて行けば、変動為替を廃止して、1:1の取引をしてゆくことが一番であるはずです。

 すると、その瞬間からチョコレート1枚は千円2千円‥して当然になるでしょう。
輸送コストや人件費を真面目に考えればもっと高くてもおかしくありません。
 まずいうまい、その土地に暮らす人々の口に合う合わない、そのような要素を考慮したとしても、輸送コストと賃金とが世界均一にそのまま商品にプラスされることになりますから、どこの国でも食料生産における保護政策、輸出規制をする必要などないぐらいになるはずです。
それはなによりもまず、自国での食料自給率の確保が大前提になるからです。
 その次に建材の確保です。国内だけで資材がまかなえなければ、家を建てることはやっぱりお金の掛かることになるわけです。コストを勉強しようと思っても1本の柱が育つのに20年は掛かります。人間の成長とさほど変わりのない年月が必要になるのです。それが土地に根ざしたリズムというものです。
 そのリズムに魔法をかけていたのが為替変動です。

 為替市場の相場が需要と供給の関係で成り立っていると思ったら大間違いです。
銀行家同士の話し合いで決められていたのです。銀行家と言っても闇組織・一族ぐるみという内容にあると聞きます。
 彼らにとって為替変動とは、右から左に資金を自由に動かせるようにしておくための上策です。お互いにそう思い込ませておくための一つのトリックでしかあれません。なんにせよ資金力が多ければ多いほど市場を操作できますし、そのための紙幣発行権限を手中にしておくという巧妙なカラクリにありました。
 もともと金本位制時代に、限られた金・銀をやり繰りするための手段だったのです。為替で変動させることができれば、それなりに都合を謀りやすかったはずです。

 国の代表同士、政治家同士の話し合いなど大方茶番だそうです。その闇組織が上から仕切って指図しているか、両立てで手先を送り込んでいるかのどちらかだそうです。
 たとえそうであろうと無かろうと、フェアーにトレードすることを考えて行けば、答えは決まっています。為替の割合に何を?どう基準とすれば?定めれば?この先の公平が確保されるのかを、よく考えてみれば良いのです。
 民族人道の考えであれば、うむを言わせず「1:1」それがフェアーにあると思います。
まずはそこからはじめなければ、どこの国も納得しないでしょう。人口大国であれば小国よりもより多くの通貨発行を希望して当たり前です。そうでなければ一人あたりの持ち高など国際間で公平にあれるわけがないのです。
 人間の価値が等しくあると思うのなら、同職同種にあたる基本賃金のあり方に世界のあちこちで差があると言うこと自体がおかしいのです。為替という差が発生し続ける限り、永遠に解決することはありません。そう思います。

 そこをまず押さえることで、他国への工場進出等を見直した場合、自国で足を固めるのが手っ取り早い仕組みとして戻って来るのです。人件費が同じであれば、わざわざ海外に展開するメリットなどあまりありません。それこそ進出した国で技術や文化を土着させて行かせるぐらいの勢いでないと続けられないと思います。そして、その国の人たちに受け入れてもらえなければお話になりません。それが人道的にあれる流れなんだと思います。

 その時、技術的支援を求める国があれば、支援を求める方も支援する方も、最先端を導入して行くのか、それともその国にあった方向で検討して行くのかを選ぶ必要があると思います。
 ここを従来通りの商いの競争だけで考えてしまえば、それは単に売った買ったの皮算用の限界として現れます。高い資金を出しました→うまく行きませんでした→街のど真ん中にゴミができました→資金がないのでそれ以上に展開させることができません。
 それが市場競争の罠であり、限界です。
でも国民通貨としてその代表である政府が赤字と無縁な通貨を必要なだけ発行が可能であり、かつ、どこの国とも為替が1:1にあるならば、足踏みをしている必要はもうありません。可能な限り挑戦することができるのです。
 しかし、この時に注意しなければならない点があります。
それは国家が、国民が、お互いに自分たちの方針に理解を持ち合わせていなければ、ゴミが溜まって行く一方になるという結果を招くことです。買い物をし続けるとはそう言うことです。
 それらの資源をあとからリサイクルできずに埋もらせてしまうことこそ、宝の持ち腐れであり、本来あるべきデフォルトなのです。でもそんな話は聞いたためしがありません。
 「お金の価値(経済的価値)が無くなったからデフォルトが起きる‥」
皆さんそう理解されています。しかしながら、お金の価値がなくなるというのは、実際の所、その国の文化価値が無くなったことであり、暮らしている人間の価値が低下したという意味です。
 一体誰がそんなことを断言できるというのでしょうか?
あり得ないと思います。たとえ昔ながらの暮らしで十分であっても、その国に国際的な交流を望む者が一人でもおれば、そこに適度な資金を投じて行ける仕組みはあるべきです。そこに文化価値がありませんからそのような通貨の発行はよろしくないなどと誰も決めつけられないと思います。

 あえて言っておくならば、それをダメだと決めつけて来るのはいつも投資家の論理です。
「お前に投資したのはこの私だから、私に従え、嫌ならすぐに資金をお前が払って返せ‥」お約束の台詞です。払えないとわかっていればこそ、借り換えを永遠に続けさせて、逃がさず殺さずの金利を求めて来るのです。このようなお金のあり方のどこに人道があるというのでしょうか?
 その後ろでは、変動為替と強い通貨の発行権限をいくつか手にしている算段が控えています。
そして強力な軍隊の確保です。それが闇の投資家の恐い者知らずな論理です。
 それを人類の有史の記憶から述べてみれば、村の掟とよく似ています。
村に属することで外敵からの安全を保障してもらっていた。その掟が嫌なら、この村から出て行け‥実によく似ていると思います。それでも土地に根ざしてやっていた分だけ、村の掟の方がまだ自然とのリズムを守っています。それが村の掟でもありました。

 でもどんな投資家にもそんな論理はまずありません。儲けるためには科学で証明されないことに耳を貸すこともまずありません。まずは兎にも角にも損失を出さずに経営してもらうこと‥それが大前提なのです。
世の中持ちつ持たれつなので投資としての掴みはそれで十分だと思います。
 しかしながら、民族人道の視点からすれば、明らかに自分たちの足下である生態系の破壊を押し進めてしまっている事柄に対してははっきりと‘NO’であるべきです。
 とくに原子力がそうです。核汚染廃棄物の増加で何が一番に良くないかといえば、汚染水が出続ける点にあります。地球は生きています。その中にある水は連動しています。人体で言えば体液と連動しています。たとえ頑丈に隔離しておいても連動しているのです。原子力の廃棄から出た物質を冷やすのに大量の水が必要とされています。200年ぐらい漬けておかないと冷えないと聞きます。そんなんで原子力開発を盛大にやろうなどとは全滅行為に等しいのです。
 DNA操作にも同じ事が言えます。外に広まらなければ良いと思われていますが、地上で興されていることはすべて地球上に存在するすべての生命に波及します。人間がわざわざ行っているDNA操作は自らの遺伝子に奇形や新種のウイルスを持ち込んでいるようなものなのです。ラボである内は大丈夫などと考えていると、それらの行為の蓄積が次第に取り返しのつかない事態を招き寄せてしまう可能性を持っています。

 この2点は現在、非常に悲観的な末路を可能性の中に引き寄せてしまっています。
民族人道は、もはや科学知識の誤認すら許してもらえない段階にあるのです。
競争の一側面である美酒に一喜一憂している発想では成り立たないのです。そのような難しさがあるのです。それこそ宇宙人や神霊にでもうかがってみなければなりません。
 しかし、実際の所‥彼らの人類に対する見解は、実験とか修行とか、宇宙の縮図だとか何やら人類のやること為すことの善し悪しを知っているにも関わらず、必要だと思われている範囲でしか諭してきません。その教えたことをどのように解釈するのかも実験に観察の模様なのだと言います。

 所詮は、地球民族として解り合おうとする姿勢にこそ、真実がもたらされるのだと言わんばかりです。まぁそんな話に宇宙人も神霊も居ようがいまいが関係ありませんけどね。でも実際ちゃんと居ることはいます。それで死んで会えるのか?と言うと、そこもまたケースバイケースでしかあれないようです。死んでも生きていることの意味、それが証明になることの意味すら理解できないようでは会う必要もない。
そこはもう、死んでからもお付き合いの世界の続きにあるだけです。
 ただし24時間ベタで観察されていることだけは確かです。否、見守っておられると言っておきましょう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 04:04 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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