2009年07月12日

【歴史】インカ帝国の政治

1-4)改稿.2014/10/21...20090712...

> インカ帝国の政治で一番に際立っているのは、
> なんといっても、全長5万キロにも及ぶと言われるインカ道です。


 インカ道にチャスキと呼ばれる飛脚を置き、皇帝への伝令伝達を機能させていました、

 チャスキを機能させるために、
 3キロ毎にチャスキワシと呼ばれる待機小屋が用意されていました。
 それと同時に、タンボと呼ばれる宿場町が20キロ毎に設けられていました。

 その20キロなる単位は、リャマの一日に移動できる距離です。



1-4)1

> そのタンボ毎にコルカと呼ばれる食料貯蔵庫が設けられていました。
> コルカに集められた食料は、不作のときの分配、災害時への対応として蓄えられたのです。


 このような統治機能を維持させる地盤として、
 ミンカと呼ばれる地域共同体のあり方が成り立っていました。

 ミンカに対して、皇帝から国民に農地が平等に分配されるという仕組みがありました。
 ‥子供が生まれると皇帝から農地が分配されたのです。

 子供が生まれると、新しい農地(段々畑)を村人総出で作っていました。



1-4)2

> ミンカ(地域共同体)としてのあり方は、
> 年貢であっても、公平が日常だったように思われます。


 農地は村単位で3つに区分けされていました。
 自分たちの分の畑、皇帝に納める分の畑、神に捧げる分の畑です。

 自分たちの分はふつうに自分たちの取り分です。
 皇帝に納める分は、チャスキやインカ道造り・水路造りに従事する者たちへの俸給、
 または、貴族身分の者たちへの俸給だった事になります。
 神に捧げる分は、不作時や災害時への対応分にあったと思われます。

 それぞれの畑での実り具合がどうであったのかはわかりませんが、

 五公五民のような分け方ではなく、
 区分けされた畑からの収穫分をそのまま宛がっていたように思われます。
 (‥早い話が収穫割ではなく、土地そのままを単位としたのでしょう)


> インカ文明には文字らしきものがありませんでした。つまり帳簿は付けられません。


 ‥記号を紐の結び方で記して伝えるというキープはありましたが、
 秘伝のような性格を帯び、一般的ではありませんでした。

 「帳簿に付けた収穫量の何%を納めよ‥」
 「収穫量はこれこれこのぐらいを満たさなければならない‥」
 といった管理は成り立たなかった‥民衆に対して求めていなかったように思われます。

 それこそ、採れた分だけを以て良しとしたのでしょう。思いっきり正解です。
 (‥そりゃ、やる気にもなったでしょう。結局は全部公平に巡ることになるからです)


> 皇帝の畑で収穫された糧が、そのまま皇帝への納め物であり、
> 神の畑で収穫された糧が神への納め物であったと考えられるのです。


 ※ それにしてもチャスキは襷(たすき)ですし、タンボは田んぼ、ミンカは民家です。
 どことな〜く、日本語の語呂を思わせる辺りが、日本人の文化色に通ずるように感じられます。



1-4)3

> その一方において、貴族間の熾烈な縄張り意識が強かったようです。
> 所謂、皇帝が崩御することで生まれる権力争いです。


 ところが、

 インカ帝国では不思議なことに、奇妙な風習をうまく取り入れたことで、
 この争い事を避けていたように思われます。それがミイラです。

 皇帝は死すとミイラとして祭られます。
 ミイラと言ってもエジプトの厳かなミイラとはまったく性質が異なります。
 皇帝ミイラと一緒に生活をするという不思議な暮らしが始まるのです。

 皇帝ミイラを祭るために、生前皇帝に使えていた貴族一族がそのままその実権を握ります。

 実権と言いましても、国を治める権限の譲渡ではありません。
 死んだ皇帝の城下の管轄に置かれていた土地の自治権の移動と言えるでしょう。

 ‥そのため、

 新たに皇帝の座についた王は、
 自ら次なる城下の土地を求めて移動しなければならない仕組みにあったのです。

 ※ この辺りは、どこの国においても諍いの起こる所ですが、
 信仰をそのような形で根付かせて対処してしまう点は見事としか言いようがありません。
 ‥それが可能にあれたのも、戦をする観念が、インカ帝国では風化してしまったからだと思います。
 なぜ、そんなにもうまくまとまる事ができたのかは不明ですが、
 根本においてハデさを好まない人々だったのでしょう。インカ人の生活を見る限りそう思います。



1-4)4

 月並みですが、目の前の黄金よりも、日々の糧こそ黄金だったのかもしれません。

 そう考えれば、インカの金細工は純粋な意味で、
 材質の一つとして、喜びを表す物としてでしか見られていなかったのかもしれません。

 上座に座る者が、黄金が多い少ないをわめき立てなければ、下もそれほどでもなかったのでしょう。
 それでも愚直に金細工をこしらえる事への好奇心は有ったことに成ります。
 それが、伝説的な金銀財宝のお宝の積み重ねの日常の結果として溢れたのかも知れません。

 そのような認識の差が、資本主義世界とは打って異なった黄金郷を成り立たせていた。
 そう思います。


> 私たちがそこから学ぶべき事は多く、原点回帰の視点がそこにあることになります。


 原点回帰と言いましても、
 単に執着しなければ、
 豊かさを享受させていくことはいくらでも可能と言った視点でしかあれませんけどね。

 ‥その執着を薄くすることが、資本原理こそ当たり前だと思っていると、
 これがなかなか難しいとの次第にあるのでしょう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:52 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。