2009年07月22日

郷活主義

 「郷活」の文字を目にしてまず思い浮かぶのは、自給自足、地産地消だと思います。
確かにそこは基本ラインにある言葉です。
 しかし「郷活主義」として大きな方向性を打ち出すには、理想とする社会体制のあり方を提示できなければ成り立ちません。そして、自給自足に地産地消をモットーにされる方は多くおられても、なかなかそこまで意見主張を広げられる方は無いように思います。
 そこで、その辺りをうんちくしてみようと思い立ちました。

 グローバル化した経済構造において現在為されている主張は資本主義です。
その資本主義の危うさは我が国の食糧自給率40%にまで落ち込んでさえもなお、成り行くと誰しもに錯覚させている所にあると思います。実際、そんな地に足のついていない国家経営はまやかしに過ぎません。
 なぜなら、経済不均衡の現実がそこにあるからです。お互いの国家がフェアーにあれていないからこそ成り立ってしまっているのです。だからといって、即刻、為替変動を廃して1:1の世界にしてしまえば、我が国に住む人口の7割はたぶん、半年をしのげずに餓死に直面するように思われます。
(※ 為替が1:1ならば運送コストの分、産地に近い方が買い負けしないため。最後に日本に売ってやれば良いという転がし転売が可能。北米なら中南米に競り負け、豪州なら東南アジアに競り負け、中国なら内陸部に競り負ける。)

 そこに潜む危機感をないがしろにして、地球温暖化対策を資本主義で推し進めて行くしかないと考えていれば、その危機感はますます現実的なものになるはずです。
 所詮は資本主義です。勝ち残ることだけが正義にしかあれていない世界観です。一次産業主体への転換を人々が求めようとも、シェア獲得の早い者勝ちにしかない=生活するのに十分にあれないのであれば、それは深刻化するだけです。
 また、深刻化してしまえばしてしまったで、地球規模での人口増加にはなおさらに対応できず、万民に向けられた幸福の追求などそれこそ幻想のまやかしにすぎない無力さを覚えるだけの後の祭りです。
 資本社会・グローバル化の基本にある市場競争の論理で行けば、地場産業の成長速度には何らおかまいなしに事が進んでしまいます。お互いに生きている以上、待ったなしはそれなりに受け留めるとしても、説明も準備も十分になく、いつの間にか地場の方から淘汰に追い込まれているのがそのスタンスです。
 その上、市場での主権を担うには、シェアの獲得であるとか、資本効率であるとかばかりが殊更に主張されています。一体全体、一部の勝者・挑戦者たちにそこまでの権利などあるのでしょうか?

 地場を育てると言うことは、そのような競争の論理とは違います。
人間ひとり一人には成長を地道に歩む権利もあるのです。
そう言う社会体制が生活の中心にあっても良いと思います。
 歴史や時代の天才をもてはやし、そこにばかり人間的価値を集中させている姿勢も如何なものかと思います。
 そして結論づけたかのように、才能ではなく努力にあるとは言うものの、実際、基本的な人間の価値は努力の大きさでそれほどに変化するような代物ではございません。差が生じるとすれば、民族的規模で為される文化力の差となります。

 医者はどうでしょう?、努力のあり方の差で患者を診ますでしょうか?
レンジャーの方はどうでしょう?、経歴を調べてから助けようとしているでしょうか?
馬車馬労働のなれの果ての不養生の末に、努力の足りない人だからと‥医者にそんな顔をされたら、歯を食いしばる頑張りなど何の価値もないという裏返しになってしまいます。
 そのくせ、同じやり方で医者が競争し合っていれば、そうあったで、医療ミスの増加は織り込み済みです。努力って何でしょう?、競争って何でしょう?、経済成長ってなんなんですか?
 資本主義のやり方で、みんなでぼろぼろになるまでがんばっても、良い医者の数は増えません。
良い治療に巡り会える絶対数の方が少ないのです。それが競争社会の刹那です。矛盾です。
 一流はしょせんどんな時代でも指の数でしょう。それが一流という評価にあります。
それでも、底辺の底上げはやり方を変えればいくらでも望めます。
そしてそれは資本主義ルールの下においては不可能です。

 上場企業は、社会的責任を背負うことにあると自慢げに主張しています。
その割には、生き残ることをその理由に挙げて、今の時代は即戦力だけを求めている有様ですとこぼします。
 自分で自分を完全に育て鍛えてから門を叩きなさいなどとは、何様のつもりなのでしょうか?
育った環境の善し悪しの差がそのままに繁栄されてくる状況を露呈し始めているのが今の時代です。資本主義構造の末期症状です。
 これほど人権のあり方に矛盾した主義主張が、これ以降も世界のスタンダードとして成り立つとすれば、民主主義における平等は死ぬだけです。

 今こそ足下を見直し、本来あるべき人間同士の和を保てる構造にあらためるべきなのです。
そのような方向性を見いだす言葉として「郷活主義」をここに主張して行きます。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:00 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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