2009年11月09日

発行権の独占を独禁法違反で訴えよう

 紙幣発行権の独占とその裏情報の暴露については、Benjamin_Fulford氏が今も精力的に行われています。といっても、闇金融の情報を逐一コンタクトしているがために、何かと要らぬ誤解の絶えない方でもあります。
 私個人的にも、白黒付けがたい一面を感じております。
なにしろ、情報にどん欲な彼のスタンスは、共有するべきことは共有して、闇も表もお互いに仲良くやって行くのがよろしいという考えをトコトン実践しておられます。
 ある意味感服すべきことですが、闇を闇のままにしたままの姿勢のそこに改革はあるのか?という疑問も生じます。まぁそれはそれ、命がけですから余計な刺激を試みる言動がタブーなのも承知です。ジャーナリストのどん欲さとしてはもっとも不可欠な要素なのでそこはさておき、私の彼の見方は彼のそれと同じです。
 情報として使えるか使えないかはトコトン調べてみないとわからない。ゆえにどのような人物との面会をも臆さない。だからこそ、私のベンジャミンフルフォード氏を見る目も、使えそうな情報にはトコトンつき合うが、あくまで参考の枠からはみ出ることはない‥と言うことです。
 そして、他者から見れば、私の言論もそれに当てはまる範疇にあると思われます。

 最近は自給自足に裏打ちさせた生存権通貨の概念にしても、人口の増大性と一人あたりの食生産有効土地比率の減衰という反比例現象の予測からもたらされる矛盾にたどり着き、このアイデアを実践させてみた所でせいぜい百年の計にしかならないことを理解してから煮詰まっております。
 ブログタイトルを変えてみた処で特に新しいアイデアが湧いてきたわけでもありません。

 それでも発行権が市民の権利から逸脱したところにあるのは、国民主権に反しており、人権尊重を放棄してしまっている形でしかありません。
 そんな現実を知ってしまえば、何を努力してみたところで焼け石に水です。
二度手間の嫌いなBravoBabyは気になって気になって仕方がないのです。

 そこで、ふと気がついたのです。
特定の市場が一企業の手のひらに乗り始めると、独占禁止法とすぐに指摘される昨今、「発行権の独占も同じではないのか?」‥そうなひらめきが舞い降りました。
 しかも、独占を押し進めるために世界に対して戦争までしかけている‥多重犯罪の極みです。その発行権を根城に、世界中の大手企業を資本家の論理で、手を変え、名を変えて牛耳っていると聞きますから、悪知恵も極まりでほとほと圧巻です。

 つまり、この一極化を切り崩すには、発行権の市民性を取り戻すことが大前提です。
どこまで行っても闇が付きまとうような論理は心外なのです。一極化が悪なら、それはそのままに改正の対象です。それが我々の知る民主政治だと思います。
 そして、紙幣発行権の世界的な独占状況を独禁法違反で訴えるにしても、資本家の論理はどこまで行っても、否定されるべき要素にはなり得ません。
ゆえに、次なるステップの提示がなされない限り同じことの繰り返しでもあります。

 ですから、誰かがフェアーな視点からズバッと「こうであろう‥」と指摘してくれる見解が必要なのだと感じております。誰もが論ずるように、無理だと思ったらそこまでです。
 しかし、恐れおののいて誰もそこまで突っ込んで試行錯誤してはおられないようなので、てめえで勉強するしかありません。日々刮目です。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:20 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする
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