通貨の発行権を憲法上、国権の管轄にあると定め記しておきながら、中央銀行の管理に委ね、銀行からの借金の形を形成し、利息を付けて国民に税金から支払わせるというあり方は、国民主権を欺いた明らかな憲法違反・詐欺・税金横領の多罪拡散行為です。
この内情の詳細については、あべよしひろ氏の執筆に譲ります。
そこで単純に、政府自らが発行権を掌握したと致しましょう。
まず、すべての国債を政府通貨に置き換えれば、返済の問題は一気に解決できるかも知れません。
それでも膨らみ続ける医療費への支払い財源を闇雲に政府発行で済ましてしまえば、それはそれで、軍事費の自由化のような足どりに等しい結果をもたらすやも知れません。
それ以前に中央集権・中央主導だけの通貨発行権限でしかないとあれば、なにかと行き届かない都市部と地方部との政策格差に国民生活の安心が磔にされかねません。
本来、食料生産自給率40%程度の国家に余裕など、足元からないのですから‥
それでも技術だけなら世界一というアンバランスの国が日本です。バランスを取り戻すためにも適材適所で発行権を行使できるようにするべきと思います。
率直に論点を申し上げれば、市町村行政/単位での発行権を行使するのか、それとも昔のような藩を基軸としたような都市/単位にあらためて発行権を行使して行くのかという選択が求められると思われます。
県という単位に対する私の見解は、行政を執り行うためにあると言うよりは、選挙のためでしかないように思えてしかたがありません。
その点、藩という単位には歴史にゆかりが深く、地域住民からの賛同が得られやすいように思われます。(※ここはある意味、私の憶測でしかありません。)
また、経済性という意味では、昔ながらの藩単位だけでは、不十分にあると思われます。そう言う意味では、あらためて都市の単位範囲を問い直すべきだと感じます。
それもすべて、発行権の権利行使が地域行政単位であるとすればこそです。
「それでは、国家枠の通貨単位と地域行政枠の通貨単位は、どうなるのでしょうか?」
最近では、EUを見習った東アジア共同体構想があるようですが、諸外国と通貨単位までを共にする姿勢は、そのままに発行権に対する意思を周りに委ねてしまうのと同じです。そこまでの共同体姿勢は有り得ないのが発行権からの視点です。
通貨の単位を共通にしてしまうよりはまず、その前の段階として、為替1:1を取り入れるべきに思います。
さすれば、発行権の管轄はお互いの手にそれぞれ委ねられ、関係国同士の経済事情から、お互いの発行のあり方を協議すればよろしいように感じます。
その線から述べるならば、国家の通貨単位はあくまで民族通貨の象徴として扱われるべきであり、地域行政ごとに通貨単位を異にするのではなく、発行単位の称は国家の権限として総べ、発行量のバラツキが地域毎に生じてもそれは地域毎の政策ゆえにあるとして捉えるべき事です。
例えば、国家として共通した発行が、給付金のように国民に等しくもたらされるべきであるとされれば、その発行権の行使は国家にあり、発行口は地域行政にあるとして取り組まれるべきとなります。
ゆえに、発行権に基づいた全人類的な貨幣価値の平等視野とは、
{諸外国:自国:地域行政}={1:1:1}であるべきなのです。
もちろんこの理解からは、対外的な非政府勢力でさえも自分たちの人権うんぬんを掲げて発行権を行使できることに繋がります。しかしそのような発行通貨を受け入れるべきかどうかは国策です。自立国家と地域行政の発行権限とに行使力の差があるとすればそこになるでしょう。
そしてそれは、国内的な民族独立運動を指示するしないにも当てはまります。そう言う意味でも、民族枠での行政権と発行権を認めつつ、属するべき所は属す姿勢としての通貨単位の共有、象徴なのだと考えます。
2009年11月10日
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