お金を発行できるという権利を、仮に誰かという個人に委ねた場合、誰しもが子供のように意味もなく自分の欲しいモノを買うためにその力を行使しようとするでしょう。それが発行権の単純な効力です。
そして、それに継承権のうんぬんを問えば、是が非でも略奪しようと試みる者は後を絶たないと思います。それはそうです。王家の権限そのものなのですから‥
もっともそんな御託など関係なく、脅迫することでその権利を剥奪状態にしてしまう方が賢いあり方なのかも知れません。
自分の手に発行権の権限があることを表立って知られることなく、発行に関する責任をすべて表の責任にしておけるのならば、それに越したことはないのですから‥。
さて、そんな発行権を、誰が管理して誰が持つべきかを論ずるには、我々人類はあまりにも経済という仕組みを知らなかったのだと思います。
しかし国民主権としての国家体制をよくよく考えて行くのならば、そこから始めずして未来に繋がることはまずありません。発行権を放棄して、物々交換のみでやって行けるほど、我々人類は、未だ分かち合うと言うことのなんたるかを学べているとは言えない有様だと思います。
闇に管理されてきた発行権の実際を知ることは、知れば知るほど卒倒してしまうほどの悪意と憎悪に苛む内容をもたらします。
儲けるためだけの焦点が、ありとあらゆる人類の暮らしに仕向けられていたのです。そこにあったのは抜け目のない独り占めだけでした。参照
そして、彼らは自分たちが発行し続けるという特権のその上で、さらに増え続けるお金の抹殺についても十分に悪知恵で先回りしていたのです。
それが資本家こそボスだという徹底した論理と姿勢です。
発行権を持つ者がすべての権限を手中に収めようとしたとき、ありとあらゆる事柄に投資を行い、貸したモノを返せと言い張っていれば、法廷において弱い立場に陥ることはまずありません。
当然と言えば当然なことです。発行権を手にする者が、貸し手の総元締めであれば王様そのものです。みんなでその権利を認めていればそれが法なのですから‥。
もっとも、正式に人類すべてが認めたという痕跡は何一つありません。
経済において知っておかなければならない重要なことは、その闇の王様が利息の分を民にただで発行してくれる(勘弁してくれる)ような慈悲など持ち合わせていないと言うことです。
借金の分だけしか世の中にお金が発行されていないとなれば、環境や命を削って返すしか利息分を創造することは適いません。
さらに誰かが儲けて貯め込めば貯め込むほど、市場に出まわるお金の総量は減る傾向に陥ります。彼らからすれば、発行し続ければ、誰かが力を付けてしまい自分たちの存在を脅かすことに繋がるのです。ほどほどの処で供給を絞り、たっぷり貸し付けてから豊かさをリセットさせるための一工夫が仕組まれるというわけです。
それが以前なら近代戦争だったのです。今なら不景気の繰り返しです。
情報社会の昨今、日常のようになにかと利得権益の話は飛び交います。
たとえ誠意を持って、行政がお金の発行権を公平に管理・行使したところで、発行すればするほど、そこに生ずる権益は揉め事の一つであり続けてしまうでしょう。
(わかりやすく政治的な関心事の中心になったとも受け取れますけどね。)
経済というものを今の社会のように、なんでもかんでも競争原理に委ねてしまうようであれば、そこから一皮むけて人類が分かち合うことなど夢幻なのです。
そもそもにおいて、国家が自由競争に圧倒されて、社会にあるべき平等権・生存権が剥奪されてしまっているような状態を社会保障にあるとは呼べません。
国家がその保障の責任を果たせないのなら違憲にあることは間違えのない結果であり、今どきの政治家に見られる安全保障・財産保障の優先発言を聞くは、何か勘違いされているようにしか思えないのです。
法の下において、もっとも優先されるべきは平等なのです。自由は二の次です。
でなければ誰が法を造り、誰が裁こうがどうでも良いのだと、自らの人権を放棄してしまっているような発言になってしまいます。
安全だって同じです。まずは腹ごしらえからなのです。食料自給率40%の国家を今すぐ占領する価値を昔なら抱きません。100%の見事さならば、そこの土地の民は使えると抜け目なく思うかも知れませんけどね。
そして自国が戦争状態になった時、どこの国が食料を供給してくれると言うのでしょうか?、日本人なら多くの方が関わりたくないと思っているはずです。見捨てられてもかまわないという戦術しかできていないことを了承しておるようなものです。
また、戦争の結果、焼け野原になってしまうのであれば、どこに技術大国としての価値などその時に残っておるのでしょうか?、商業的に考えても資本家の論理しか残りません。出遅れている国に突きつけられる勉強勘定などいつものことです。
以上、私の思う今どきの安全保障への見解でした。
まずは、発行権における全人類的な公平性について考え、論じ合うべきに思います。基本的な生活までの不安が脅かされている最たる原因こそ、「発行権は誰の手に治まるべきか?」なのです。国民主権をそらんじるのならばなおさらでありましょうぞ。
やるべき順番など始めから決まっておるのです。
発行権が国民の側にあり国民主権を語れるのであれば、行政が銀行に対して赤字を抱える必要はなくなるのですから‥そして金融をバックに君臨する闇もお金という餌を撒けなくなれば、根こそぎ減らせることでしょう。
それで銀行や金融が成り立たないと意見されるのであれば、行政業務に吸収されるべき事です。
また、そこに見られる変化は、行政と市民の間にも起こるべきして起こることです。何らかの革新が得られて当然となるでしょう。
何よりも、そこから始まる自由という事柄を我々は未だ知らないのです。
2009年11月14日
この記事へのコメント
コメントを書く