2009年11月16日

発行権に伴う諸事情

 国家/地域行政ごとに発行権の行使と発行を認め合う時、そこには今までになかった疑問が生じます。それが税金から成り立ってきた財政です。
 仮に税金制度を放棄して、すべての財源を自由に発行権の行使より発行できるのだと致しましょう。
その時、それでも市民の健全な営みを案ずるのならば、人それぞれの収入をきちんと把握しておくことは、社会にもたらされてしまうかも知れない混乱の原因を知る上でもっともなじみのある習慣です。
 つまり、税を納めるという習慣の廃止を国家が採択したとしても、個人の収入に関する行政への報告は、そのまま義務づけられるという流れになるわけです。そうあるべきだと思います。

 そしてそれはそのままに、行政がどのような発行を採択しているのかを、市民が事細かに知るべき足跡にもなります。
 行政が自由に発行権から予算を創造できるのならば、それはそれで天下りのような官職に有利な採択がもたらされてしまうことが十分に予想されるからです。
 率直に申し上げれば、市場の景気はさほど良くはないのに、公務職への給与は景気に変動されることなく安定であるどころか、ボーナスまで支給されてしまうような有様の事です。いくら法に定め記されているからと言っても、納得の内容にはあたりません。血税なる言葉が死語に到ったとしても同じ事です。
 また、慎重すぎて逆を歩めば、創造的な人材が公務職に集まりにくいという禍根にも繋がり兼ねません。

 そこで単純な意見として、地域住民の総収入の%から財政の発行規模を決定するという考えが挙げられるかと思います。%であれば、1年遅れ程度で公務職の給与も確実に景気に連動することになりえます。
 ただ、この考えにはおかしな所があります。
それは、財政にその%を上回る分が求められた時、「どこから不足分の財源を確保してくるのか?」という疑問が付きまとうからです。
 借金をするための行政債を検討してしまえば、発行権の権限の行使力に何ら創造性の伴わない、従来の慣習を踏襲しかねない本末転倒な意見を想起させるだけです。
 ゆとりのある市民から寄付を募るのも一つの郷土精神のあり方ですが、言うまでもなく、地域行政でそうであるのならば、中央行政でも同じ事が問われることになります。お互いの中でしっかりした取り決め・行政方針の伝達が為されていなければ、同じ視点から同じく安易な発行だけが繰り返されてしまうだけの不経済に陥りかねません。その点において、真新しさなど何一つございません。

 一方で、行政に発行権があるのならば、自然消滅的に金貸し業務は民間から淘汰される流れに向かいます。
 なぜなら、行政がその代わりに貸付業務を兼ねたところで、市民にわざわざ利息を付けての返済を求めることに何の意味もないからです。
もともとの発行権の行使は国民主権から為るのです。行政はその窓口としての代行でしかありえません。発行権を持つ側とその管理の代表の側とで、貸し借りの関係を民間と同じ視野で検討してしまうことは実にナンセンスです。
 そこで、店を開きたいとか、事業を興したいという生活や国策に関する投資については、お互いに責任を持ってやっていただくためにも、貸した分の返済だけは最後まで求めて然りだと思います。つまり無利子負債が当然の理解です。民間の金融業が太刀打ちできる次元ではありません。
 そして、利息が発生しないのであれば、それ幸いとばかりに消費だけのために借りようとする考えの市民も溢れることでしょう。その流れは自給自足から遠ざかる考えそのものです。未来の需要を資源や技術の裏付けもなく、お気軽に消費できてしまうことには賛成致しかねます。

 ところで‥銀行にお金を借りるように行政にお金を借りる行為には、不公平が伴います。誰かれは許可されたのに自分は不許可だったなどです。
 それはそれで、なにが平等なのかを銀行の金貸し時代とはまた違った状況をもたらす事になります。多くの市民がすぐにそこに気がつくでしょう。
 あすこは支店舗がいくつもある優良企業だから借りられても、自分は駆け出しで信用も担保もないから貸すことができませんの一点張りの発想は、市民の活動を促す責任を持つ行政の姿勢ではありません。
 少し突っこんで考えても、地域に同じ業種の店舗が増えすぎれば、売上は上がりません。地域に必要な需要は常に一定です。同業店舗が増え、安売り競争をしたから、それで売上が伸び続けるわけではありません。未来の需要を先取りしただけの顛末です。時間が経てば閑古鳥が鳴くだけの話です。それが地域の需要のあり方だと思います。
 まして、消費のためだけの貸し手など存在しなくなるのです。それが発行を完全に行政の管理下に置くというあり方なのです。それが平等を織り込んだ形ゆえなのです。
 諸外国に到るまで、同じように発行権を行使するのならば同じ事です。人口が爆発し続けなければみんなで右肩上がりなどただの妄想です。その時、人口が爆発したところで土地が増えるわけでもありません。
それは一定の条件下でしか人類は繁栄できないという理解すべき足元なのです。
 また公平に、誰しもが店を一軒構えることを無条件だと考えたとしても、自分の店を持つ=自分の家を持つとする考えもあります。
どのようであれば公平にあれるのかを慎重に、かつ、地域の要望にあわせて検討し続けて行く姿勢が求められる処となるのです。

 見方はそれぞれですが、働く人のすべてが店を持つ持たないの対象ではありません。
そこからうかがえることは、借りる人と借りない人に訪れるだろう発行量格差の課題です。
 積極的に借りる借りないは自由権の中身です。民間同士での貸し借りであればそれでおしまいの話でした。
 でもこの場合は貸し手が行政だけでしかあれていない状況にあたります。そこに対する見解も求められる事になるのです。常に平等を宛がう姿勢に身を傾けるのも行政の責任と着眼です。

 一方で、お金が腐らない限り、お金はどんどん市場で膨らんで行きます。
その時、行政が妖しげな金融商品を商品化しなければならない必要性など、責任上まったく存在しないのですから、株式や現物への投機だけが過熱する可能性を残している状況にあたると思われます。
 行政としても発行し続ける仕組みに足を踏み入れる以上、何らかの形でお金の量の健全な状態を維持させる責任が問われます。
 つまり、お金や資産を腐らせる手立てが求められるのです。
「さて、どんな方法が良いのでしょうか?」
ここが最大のハードルです。国民全員が腹をくくらねば成り立ちません。
なぜなら、誰かがその損を請け負うという話になるのですから‥
今の銀行主体の発行ならば、それこそ発行公債のデフォルト騒ぎです。
新しくあれるための考えが求められるのです。

 結局は、似て非なるというのが、人智の新しさでしかありえないのだと感ずる所存です。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:51 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする
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