2009年11月20日

発行と裏付けと国民意識

 銀行管理に依存してきた通貨発行のメカニズムには、三角貿易に見られる西洋商人の強欲な精神が到る処に渦巻いています。国民主権とは名ばかりで、国家・行政の借金は銀行からの借り入れとし、その支払いとなる国民の血税は銀行への返済でしかあれていません。
 そして通貨発行の管理人たちの目には、民衆=消費者=家畜という風にしか映っていないのです。また通貨発行の管理人=資本家なのです。
 一見、何も問題のないように思われてしまう公債発行の理解ですが、そんな呑気な理解こそ、儲け主義の術中にはまってしまった清さゆえの不幸と言ったところでしょう。
 それはまた、フランス革命以来、民衆が急激に教養を身につけてきたとは言え、人権意識の低さ、否、一体感の乏しさゆえでした。

 なぜ、国債が通貨の裏付けとされてきたのかといえば、国家の名義で貸し借りできれば取りっぱぐれが発生しませんし、返せなければ、国家を経営する権利は銀行にこそあるという仕組みに貶めることが可能だからです。
 つまり、事実上国家の通貨発行権を担っていたのは政府ではなく、銀行の銀行の銀行の管理者(一族)だったわけです。
 ちなみに、金本位制という元来からあるもっともらしい通貨の裏付けは、闇組織の顔なじみ同士でのみ通用させて来た裏付けルールにあったとも考えられます。

 すべては、どこまでも儲けを独り占めにしたい商人らしい発想にあると思いますが、そんな発行権にこだわってきた彼らにもなぜか、独特なポリシーがあるのだそうです。
 何が何でも、搾取するが如く儲けたお金だけを利益とし合うのだそうです。
ふつうに発行権が手中にあるのであれば、自分のためだけに発行すれば良いところをそうはしていないようなのです。そのような場合でもあくまで、脅しのための道具として発行権利をふるっているふうに聞き及びます。
 そして操って、意のままになるのを楽しむかのように儲けて行くのです。
性格がネジれていると申せばそのままですが、凡人がまき散らすかのように湯水のように使ってしまうお金に対する意識とはまるで異なり、儲けるためだけに向けられたどん欲な強欲さには、ただただ驚かされるばかりで声も失います。

 それもこれも、自分たちが発行できるお金でさえ、裏付けがないと商売(マネーゲーム)にならないという‥商人ならではの、真っ当な習性からだと思われます。
むしろその商人としてのケジメさが秩序を見いだし、如何にも経済論という何かが、人間の活動に影響を与えているかのように見せかけて来たのだと私などは思うのです。
 語られる処では、フランス革命に至る処からすべてが闇商人の方針に基づいていたと言うのですから、歴史上の識者の正義も博愛もあったもんじゃありません。
 王政から国民主権という展開にしても、商人の儲け主義の都合だったと言われては、あまりにも哀しすぎます。そちらの方が儲かるから‥貴族相手だけの経済枠を破壊して、王政からの脱却を民衆に与えたのだそうです。
 まずは貴族ばかりにいい顔をしてたっぷりと貸付、赤字財政に貶め、国民から税を搾取させ、スキャンダラスを流し、民衆を煽り、街では息の掛かった思想家を使って無知な大衆に理想を吹聴して焚きつけた‥
 たしかになんとなく経済不況の度に繰り返されてきた流れそのものです。
貸し付けることができたのも、その手の商人達の結束があったからとすれば、とんでもない野心に悪知恵に行動力です。
 どこまでが実際に本当なのかを知り尽くせるものではありませんけどね。


 それはそれとして、我々は改めて、国民主権の視野に則った通貨発行のあり方を考えなければならないのです。そのとき闇商人のように裏付けを何かに求める行為に意味はありません。トリックを知れば、誰しもがそう理解されるでしょう。
 そもそも、中世貨幣の裏付けの代表として存在してきたGOLDは、今やメッキ加工の必須資源です。裏付けとしての機能性を期待できるほどに産出量が得られないのであれば、裏付けの価値を現物に求める事自体が無意味です。そう思います。
 比較として述べておくならば、国民生活の自給自足が適うのならば、その健全な流通の分だけの発行は十分に検討されるべきだろうという考えだけです。
それでさえ、食料は消費されて新たな生産を求められるのに、お金の消費はそのままで、使っても使わなくても誰かの蓄えとなるのです。
 まるで、メタボではありませんか。
その上、たっぷり付いてしまった脂肪を急激なダイエットでもしてそぎ落とせば、脂肪を覆っていた皮膚が弛むなどの醜さを残すのです。デフォルトそのものです。

 冗談はさておき、たしかな裏付けとして申し述べられる視点が一つだけございます。
それは、生きとし生けるすべての生物が継続して存続可能であれることを、発行方針の柱とすることです。
 すべての人類が、ある一つの方向に意識を向けることこそ裏付けになると考えます。
否、そうなるように意識が向くように教育を変え、そのように共生してゆくべきです。
 事実、いやしくも資本主義のグローバル化という形で前例が存在しているのです。
知らぬままに人類が一丸となって突き進んできた痕跡がそれにあたります。
創造と破壊は同義と言うは易く行うは全然違います。
 たしかに創造への困難はあるでしょう。創造の方が道のりが果てしないからです。
そして、最後まで破壊し尽くす未来を誰も意図してなどおりません。それはまた完成なき道を進むことに同義です。

 一方で、理想を掲げて人類の活動のための発行をすることは、そのままに人間の活動に一定の制限をもたらす定義でもあります。
それはまた、野生の生態系があるがままの自然である方が良いと知りつつも、人間と共に生きることの申し入れを、自然界に程度要求している見解でもあります。
 そうでなければ、まだまだ意識調整の必要な民族同士のわだかまりや技術相互に対処して行くには難しいと思われます。
 ただはっきりしていることは、何でもかんでも取引をして取り寄せあえば成り立つと考えるのではなく、可能な限り自給自足の立場をお互いに了承し、足りないところは補い合うという精神をモットーとすべきに思います。
 当たり前な事ですが、日本人ほどに世界はそうは思っていないように思われます。まだまだ甘い汁をすすりたいという思惑が世界には渦巻いているのだと思います。
慣れ親しんだ経済のあり方を踏襲したい欲求も根強いと思います。
ならばこそ、どこかの国がお手本を見せるべきだと思います。

 日本人ほどに資源もなく精神環境だけに恵まれた国民性もありますまい。
ゆえの賢さ、ゆえのしたたかさを身につけている民族など世界から見れば稀なのです。
もっと誇って良いと思います。輸入などなくともできるのだと示すことができれば、世界が手を取り合うことにもっと希望を見いだせる事になるのですから‥。
 江戸の人たちにできて、現代の人同士でできないわけがない。
その原点こそ、発行権とどう向き合って行くかだと思います。
江戸の世でも、年貢というシステムだけでは賄いきれなかったのですから。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:58 | Comment(0) | 発行権 | 更新情報をチェックする
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