1-4)改稿.2015/08/17...20091204...
> 命題:
他藩すべて蓄え豊かにある時、または、他藩すべて蓄え貧しくある時、
自藩の借財を石高増のみの手段で返済することは不可能である。
他藩すべて蓄え豊かにある時は、米価が安く支払いのコメも多く必要になりがちです。
‥むしろコメで支払う事を諦めて別の算段を考えるべきになります。
他藩すべて蓄え貧しくある時は、貸し手が引く手あまたなので、借りられるとは限りません。
‥元手を手配できない以上、事は一向に進まないでしょう。
さて、この命題を上杉鷹山に引っ掛けて問うて見たいと思います。
1-4)1
> 上杉鷹山とは、米沢藩の危機的な藩財政を立て直した江戸時代指折りの名君です。
上杉鷹山の生きし時代は天明の大飢饉をその間に含みます。
さらに、鷹山が治めた米沢藩の内情は
石高が15万石に減らされても尚、家臣をリストラすることなく、
先代からの義の精神により、会津120万石時代からの家臣を召し抱えたままにありました。
‥他藩とは異なる見解がそこにありました。
ちなみに、壱石とは一人あたり年間に必要とされる米の収穫高を指します。
15万石なら15万人までを養えるとするおおよその見立てになります。
現代人の胃袋と食事観からは、何を基準にそうなっているのかが今一つわかりませんが、
それが頭打ちだというわけでもなさそうです。(石高評価には時代毎に曖昧さが生じます)
‥米沢藩に、家臣団が五〜六千人いたとして
五人家族平均であれば、それだけで二万五千〜三万人になります。
15万石なら、藩民の16〜25%が家臣家族だった割合になってきます。
‥藩民の年貢を仮に五公五民として
租税対象の藩民4〜5人分あたりの年貢枠(15万石)からなら、
家臣団1家族あたりに必要とされる平均的な胃袋分に対して二〜三倍ぐらいです。
家族平均がさらに上回っていたり、見栄を張った暮らしをしていたなら
あっという間に足が出て、厳しい窮状に陥りそうな汲々とした事情が想像されてきます。
(まぁ実際のところ‥藩の士らは、伝統を重んじる訳ですから)
(見栄を張った生活にどっぷり漬かっていたという話です)
そのような藩財政ですから、借財の蓄積は頭を抱える問題でした。
‥他藩と比べても酷かったようです。
その借財MAXでもうダメだという時期に、鷹山は米沢藩第九代藩主に就任しました。
苦心の末、藩の石高を上げることで完済の目処を立てたという話が語り草になっています。
1-4)2
> もし仮に、鷹山の努力手段が、日本全国津々浦々で倣われたとしたらどうでしょう?
命題の本質はそこにあります。
同じやり方で片が付くのであれば、どこの藩もこぞって右に習ったはず‥
気丈で通った日本人であればその通りだったことでしょう。
‥しかし時代がその右に習った形跡は見あたりません。
ゆえに、鷹山の功績を讃えるだけでなく、そこに「なぜ?」を掲げるべきなのです。
どこもかしこもお米が銭の代わりに通じた時代です。
士は、銭の代わりにお米で支払うことが日常でした。
ならば、米沢藩の借金にしても
銭換算ではなく、米換算で勘弁してもらったという下りが述べられていてもおかしくありません。
‥ところが、そんな内容とはまるで異なる返済方法が鷹山の時には取られていました。
他藩が、米沢藩ほどに財に窮していたかどうかは別としても、
お抱え人数の割合を考えれば、米沢藩ほど条件の悪さは他にはないわけです。
返済事情からすれば‥逆に、他藩の財政の方が一段と劣っていたように見えてくるじゃありませんか。
どうしてそこそこにしか振るわなかったのでしょうか‥ここがまた不可解です。
ここには、倹約令(幕府財政が下降線を辿る一方で執り行われていた)の効果が
まるで表だって現れていなかったのと同種の謎があるように思います。
‥そこに命題を解く鍵が潜んでいそうです。
当時は新鮮野菜を遠くにまで運べるような環境にはありませんでしたから、
各藩共に、コメ生産の余剰でやり繰りするしか有効な返済手段は得られていません。
‥特産品や地場技術を手掛けていなければ、まったくその通りだったと思います。
そんな条件下にありながら、借金完済への目処を立てた‥
これはどう考えても、周りの細かい事情も鑑みなければ成り立たない事になります。
なぜなら
諸藩でお互いにコメをやり繰りし合った所で、蔵の中身は増えもしなければ減りもしないからです。
コメ以外であればメリットのありそうな話でも、同じモノ同士ではモチベーションに繋がりません。
現在の通貨にしても、差益損得の発生が生ずる変動為替相場があればこそでしょう。
‥お国自慢の精神よろしくに、地元の米が一番だと互いに思っていれば、
尚更に余所のコメなんぞ口にしたいとも思わないわけですから、
蔵のコメの中身の違いに好奇心も振るわなかった事でしょう。
つまり、コメそのものからさらなるメリットは生じるわけがありません。
ならば、当時のコメ流通がどのようにあったのかを調べずに
上杉鷹山を語り尽くした事にはなりません。そのように推理立てる事ができます。
聞けば、米沢藩の米を取引するに辺り、
とある大商人(酒田の豪商:本間光丘)が介入していました。
‥まぁそれもまた、鷹山の人と為りと運の賜でしょうけどね。
> 話をいったん戻しましょう
どこの藩でも特産品や地場技術が無いのなら、そこに見いだせた手段は同じだったはずです。
そんな支払い分の余剰米を引き受けてくれた所とは、どのような存在だったのでしょうか。
もちろん、引き受ける方としても儲け話に繋がる期待がなければ意味がありません。
また、どこの藩でも赤字ともなれば倹約・増税の流れです。
その時、買い手としてだけでなく、利ざやの稼げる市場があったなら、
商人の誰しもは進んで現物を買い求めることになります。
一方で、年貢で絞られている民百姓の多くに市場に回せるほどの余裕などあるわけがありません。
市場から米を買い戻すことができたのは、やはり商人風情だけだったと予想が立ちます。
(‥中には、米相場で財を成した庄屋も居たそうです)
江戸時代には米の先物相場が出来上がっていました。
世界に先駆けて我が国には先物市場があったのです。でも‥
‥商人達の資本調達手段として、十分に機能したという言われ方は聞きません。其も又不思議です。
米の先物相場が登場したのは享保十五年(1730)です。大阪の堂島に登場しました。
鷹山(治憲)が家督を継いだのが明和四年(1767)ですから、恐ろしいほどに辻褄が合います。
ちなみに、米沢藩の完済は第十一代藩主斉定の時代です。
鷹山の死の翌年の文政五年(1823)まで続きました。
(‥他藩よりも圧倒的に多額の借金を完済したわけです)
> 具体的には
酒田の豪商(本間)から鷹山の口利きでお金を借りられる仕組みを作り、
それを元手に米沢藩内の百姓が石高を増やしました。
そのコメを本間に回して、米相場で利ざやを得て、それの分配を百姓にも回し、
百姓たちは借りた分を返して‥そんなことが滞ることなくうまく続いたそうです。
‥現代なら、ごくごく普通の思惑シナリオに見えますが、どうでしょう。
そうです、ハズレが生じなかったのには、まさに奇跡のおまけが付いていたのです。
それが酒田の豪商本間家(本間宗久)の存在だったのです。
‥そのおまけが兎に角もの凄かったわけです。
1-4)3
> つまりこうです
江戸の世において、金や銀の産出量以上に大判小判の数は増やせません。
でも、交易を通じて外国に垂れ流れていました。とくに奴隷貿易のなれの果ての砂糖が原因です。
‥それ故、対策として米相場なるものが登場してきたとも言えるでしょう。
(金銀の不足をコメの価格変動で補おうというわけです)
しかし、ここに想定外が発生しています。
相場を操ろうとするのは、市場を担う側にしてみれば当然の思惑ですが、
取引で負けているようならそうは行きません。そんな大物が登場していたのです。
それは言うまでもなく、諸藩の財政にも影響を及ぼします。
‥米相場を絶対的に操る豪商人の存在とはそいう下りを巻き起こすのです。
それこそが、上杉鷹山が組んだ酒田の豪商本間家(本間宗久)だったのです。
酒田の豪商本間家(本間宗久)は、当時、天下無双の最強相場師だったそうです。
‥将軍家より金回りが良かったとか。
「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。」
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」
> 実に‥この二つの組み合わせがあったればこその米沢藩の完済だったのです。
‥そこに見られる完済の凄さの裏には
明らかに、米相場がもたらした銭の流れの偏りが伺えます。
それは、諸藩が右に習って真似したくても、真似の叶わない事情にありました。
米沢の藩民が鷹山と共に頑張って‥米を売って儲けたの感覚で考えていては理解には至りません。
(あり得ない事側の裏に、天の采配有りきです)
(其のそもそもにしても‥人材を無闇に切らない義がもたらした天からの蜘蛛の糸です)
そして
当の本間家が、良心的な豪商だった事情もありました。
‥当時の飢饉の際、蔵から無償で米を放出し
地元から餓死者が一人も出なかったと語り継がれています。
(言ってしまえば、それぐらいにうなるほどの米俵を蓄えていたというわけですね)
1-4)4
‥何が言いたかったかというと
「そういう裏事情の説明が全くされずに、上杉鷹山だけを持ち上げている風潮が気にくわん!」
という次第です。
だってそうでしょう。
「決断と知恵と相場と強運とが背中合わせでしたなんて、どう説明するんですか?」
‥そんな落ちでは夢も糞もありません。そこはわかります。
「ですが、いつまでもそれで良いんですか?」
> それでは、鷹山の誠実に泥を塗るばかりでしょう。
> ‥馬鹿正直に事のすべてを伝えても、上杉鷹山の功績にぶれるところは無いと思います。
「生(な)せは生る、成さねは生らぬ何事も、生らぬは人の生さぬ生けり」鷹山