BIS規制とは、銀行の自己資本比率について取り決められた国際ルールである。
銀行間に起こりうるトラブルを未然に解消させ、国際的な通貨信用を確認し合うために設けられている。
その存在はバーゼル銀行監督委員会に基づくとされ、中央銀行の中央銀行という立場としてスイス・バーゼルにその国際決済銀行が置かれている。
実にもっともそうな名目を冠されているが、単純に指摘してしまえば、世界的な平和条約の類からなる公的機関ではない。また、その内容は、その昔からの大銀行家同士の取り決め(影響力)がもたらしてきた民間組織による信用則にすぎない。
ゆえにその実態は、銀行集合構造が織りなすトラストもしくはカルテルを意味する。
世界的な企業構造に対する役割から言えば、コンツェルンと見ても言い過ぎではない。
具体的なことを述べれば、自己資本比率8%を維持できない市中銀行は、国際取引を拒否され、銀行としての信用を大きく失うことがその中身の大きな約束事になっている。所謂、銀行組織間に要求されているノルマと言えるだろう。
ただし、このような取り決めが具体的に為されたのは1980年代後半の事となるため、ノルマという表現が意味するものは比較的最近の金融事情にしか当てはまらないことをお断りしておく。
民間の企業経営で言えば、自己資本比率の割合を検討されるは経営の健全度を推し量る上でも基本的なことなので、民間で決めようが公的に決めようがどちらでもかまわない見解にあたる事になる。だからそこに問題性はない。
しかし、紙幣からなる通貨の発行権をその組織が一手に担っているとなれば、話の中身は全く違ってくるのである。
中央銀行自らが国家紙幣を発行するのである。それはそのままに、市中銀行が自己資本としてその発行から8%以上を回収し自己資本として確保せよという中身となる。
中央銀行の発行からしか各国通貨が供給されない仕組みにあるとき、銀行の貸し付けからなるその発行を100%とすれば、8%の倒産がそこに起こりうることを前提としている内訳だ。これは非人道的な要因となるに十分すぎる。
リーマンショック以降、その比率を10%以上に改めようとする動きもあると聞く。
それはそれで戦争以上に残虐な判断となろう。
ところで、これを細かく推察して行くと、すごく奇妙な疑問が生ずる。
日本の民間資産1500兆円であるならば、国内市中銀行群には、120兆円程の内部留保が無ければBIS規則違反に陥ってしまうからである。
一体如何なる状況になっているのか‥実に不明瞭極まりない。
行員の高給取りは今に始まったことではない。その上で1500兆円は他人資本にあたるのだから、そういう摩訶不思議な解釈が起きても不思議はないのである。
※ ちなみにその昔は2000兆円と謳われていたが、911事件のツインタワー崩壊の時、500兆円分にあたる書類を消失したとかで、1500兆円に減額という中身にあると聞く。
そもそも銀行の貸し付けは、貸し付けているお金が銀行預金から裏付けられた他人資本と見られているため、そのお金の流れはそのまま他人資本にしかならない。
しかしその実態は、中央銀行に預け入れた準備金率に基づいた発行から為されている。
そしてその準備金(担保)に自己資本や他人資本の差異は求められていない。
貸し出せば貸し出すほどに他人資本は一時的に膨らむ性質を備える。いわば市中銀行の経営としては諸刃の刃なのだ。
一方で、それらのお金は最終的に返さなければならない総額にもあたるため、市場にお金が有り余るほどに発行が起こるには、相当の貸付と健全な経営とが同時に為されていなければ成り立たない。
そして、借りた側が返済を果たすことで、どこかが破綻する宿命を背負う仕組みでもある。
ところが、日本の繁栄はその想定を遙かに凌駕していたため、大きな過渡期を迎える事になった。
銀行への全体的な返済金利以上の利益を海外から持ち込んでいたのが、東西冷戦時の出来事であった。銀行としても当時求められていた自己資本比率は国内法で定められていた4%のみであった。それはそれで年利で考えても、3%の金利に高額な手数料を得ることで十分にクリアーできていた事だろう。
言うまでもなく、今の新興国は国内不安定にあったゆえ、なんら国内企業優先に貸付ても問題は生じなかったのである。
その上、東西冷戦下にあったとは言え、商売に垣根など無かったのであれば、米英・欧米諸国側が忌み嫌う体制の異なる社会主義圏との取引は非常に魅力的であったはずだ。また、それは当時の後進国からの安い仕入れがもたらした貿易黒字を見ても一目瞭然である。
ところが冷戦終了後に経済のグローバル化が生ずる一方、BIS規制が取り決められた。と同時に、国内バブル崩壊にも見舞われ、国内銀行群は多大なダメージを被ることになった。
以降、世界中が、他国からの安い仕入れを期待する構造がグローバル化の醍醐味となったのである。それはまた、どこにも隷属要素の期待できない買い付け下克上、コスト競争を意味していた。
その時、銀行の投資は様変わりせざるを得ない。国内企業に投じるリターンよりも後進国に投じるリターンの方が大きいのであれば、自ずと流れはリターンの望める方向に流れるしかない。そしてそれは、国内中小企業に返済能力がないことを裏付けした上での投資構造への変転であった。
さてその時である。市中銀行に発行権はなく、大赤字を抱えている状態にあれば、身銭をやり繰りしてでも準備金を入れて中央銀行から借りてくるしかない。そしてそれがそのままでは自己資本とは言えない。借りたお金は返さなければならないのだから。
それはまた他人資本を投じて辻褄を立てればよいと言う話でもない。
だから、少しでも資金を都合付けておくための段取りが様々に求められた。
つまり、当時2000兆円の国内資産に対して銀行の内部留保が4%であったのであれば80兆円程である。それが海外に向かう過程において次第に膨らみ、結果として円キャリーを巻き起こしていった。
そして海外に投じられていたのは、銀行の自己資本からなる信用創造からであっただろう。ここはさすがに他人資本をむやみに投じるわけには行かない。初期の段階であれば、そうするのが望まれよう。
ただし、海外に投じた資金を引き揚げる段階にも為れば、殿となるべき生け贄が求められる事になる。そこで、それぞれの国において民間からの投資気運を煽り立て、自分たちの仕立てを商品と銘打って買わせればよいと言う話が出来上がる。
うまくゆけば他人資本にあたる資本だけが大きく縮小することが適い、BIS規制をクリアーする的にはおいしいのだろう。
しかし、問題は大きい。
新興国や後進国市場に対して日本の銀行が8%の高金利を課すわけではない。海外の株式市場など日本の貯蓄資本の大きさに比べればどれぐらいにあるというのだろうか?
そしてそこに手持ちの自己資本を海外に投じていれば、国内での自己資本比率は一時的に下がる傾向を見せる。信用創造と言えども、国内に貸し出せるだけの目処はない。銀行先頭でグローバル化を押し進めていればなおさらである。
しかし、自国内にも景気のよすがを見せつけておかなければ、殿機能としての民間からの投資気運にその期待はおぼつかない。
そこで一番手っ取り早いのが、建てる家を担保にした金貸しである。
住宅バブルが起これば、返済が完了せずとも担保価値が貸した額の一割を下回らなければ元は十分に取れる‥もとい、自己資本比率の維持が約束されるのである。
そして、バブルが弾けた後は、定期預金が増えるから、自らも痛手を受けたはずの自己資本比率を素知らぬ顔でその定期預金で準備金建てし、見せかけ上、辻褄を合わせることが可能となる。
もちろん、自行の経営が順当にあれている範囲に収まっていればこその話だ。
さて、このような推察の元に、紙幣発行権とBIS規制の関係は、銀行の健全性を建前とした詐欺行為そのものにすぎない危険をはらむものである。
当然ながら、世界的に各国行政が通貨発行権の権限を保持・行使するようになれば、BIS規制を放棄して行く流れとなるだろう。そうでなくては成り立つまい。
一方で、銀行機能の維持を求めて、通貨発行権だけを行政に返還したとしよう。
その時、銀行経営を成り立たせるためにあるべき自己資本比率を2%程度まで下げればよいとする見解も見られるかも知れない。
しかしながら、税金を納めていない銀行業界にそのような論理は通らないのである。
なにしろ税金を納めていなかったからこその高給体質だったとあれば、行員への職業的魅力は失われ、結果として人材の質ともに衰退してしまうのは察するまでもない。
そして、その辻褄合わせに直接税を廃止したとしよう。
しかしながら、国債の裏付けを失っている金融業界に求められる金融調整能力はないのだから、行政と一体にあらねば成り立たないのである。
ゆえに、行政と銀行の一体化は避けられまい。
そうでなければ、今度は逆に他の業界から行政が訴えられかねない仕組みに陥ってしまうのである。銀行業界ばかりがなぜ優遇されるのかが問われることになろう。そういう下りが予想されるのである。
それが国民主権発行に織り込まれるべき姿勢であると思う。
2009年12月06日
この記事へのコメント
コメントを書く