先に結論を申し上げておきます。
粒式の概念を検討した結果、粒式の概念はアナログでも成り立つという内容です。
そして、生存権通貨の概念に在り続けていた電子弊という発想すらも無用に至らしめます。国民主権発行で等しく給付すればするほどお金が溢れてしまうのに、なぜか溢れません。
では粒式について述べてみます。
粒式の概念には民主主義が導入されています。
資本主義の概念は論外になります。そのため、粒式を取り入れれば、株式市場は魅力を失います。誰が魅力を失うのかと言えば、経営側の立場から見た場合です。
資本主義の論理はこうです。
仮に大手企業が1000億円の融資を求めて社債を発行したとします。
利息が3%なら、1030億円を期日までに用意できなければ償還が成り立ちません。
その時、社債を全額引き受けたのがたった一人の大富豪だったとすればどうでしょう。
期日までに売り上げた利益が1100億円であったのなら、会社の儲けは70億円、社債の利息分は30億円です。社員が700人であったのなら、分け前の比率は7:3なのに1千万:30億です。300倍の開きが生じます。
当然、株主からも配当を求められれば、社員の取り分はどんどん減ります。
実際にこのような差があるかどうかは知りえませんが、たとえ3%という低めの金利を提示していても、そこに関わった人間の数を織り込んで考えた場合、資本家の論理、即ち、お金で利益を得る数字マジックは暴力的にしか映りません。
それはまた、国の富の25%を1%の人間で動かしているのであれば、同じ事です。
民主主義であればこうなります。
外からの融資は原則会社内では御法度です。基本は内部留保で賄うべきとなります。
つまり商売で得た売上からの運用です。しかし内部留保の名義が、会社名義でしかあれないのであれば民主主義とは呼べません。
かと言って、気前よく社員に全て分配してしまえば、会社に出資してくれるかどうかは不明です。
そもそも、社内での貸借的な運用では、経営がうまく行っていることが前提条件です。
社員が健康にあり続けることもその一つです。
社内間だけの資金運用に問題点があるとすれば、経営が赤字に陥れば、あっという間にドミノ式に凍り付いてしまう点に尽きます。
言うまでもなく、共同出資関係にあるとの理解がなければ成り立ちません。
それは損するも一緒の見解です。
一方で、外からの借入れを嫌って禁則扱いにしてばかりであっても、{売上が少ない=機動力に乏しい=才覚がない=仕事をするな}の構造となってしまいます。
立場が弱ければそうなるのです。それはそれで民主活動の妨げになりかねません。
そこで株式が考えられますが、共同資金の株式から切り崩せば、額面がどうあれ手持ち資金は減ります。この辺りの仕組みが曖昧でわかりづらいのが株式です。
考えられる事は、額面を担保に銀行から借入れているのか、引下ろしてくるだけに思われます。
すると払い戻すか、売上から入れ直さなければ額面は保障されない事になります。
もしくは額面を定めずに売れば、引き受け手の買った値段が新たな会社の経営資金と見なされ、同時に株主権限が交代するという中身になってきます。新たに引き受けた人のお金が新たな資金源です。
しかし極端なことを言えば、中身が0円の株券をわざわざ1万円で買う人はおりません。もしそのようなことが可能なら、株主人数を限定することが可能です。
そこで空になった株券を放棄して、新たに株を発行するための共同出資を同じ社員同士で出し合う事の繰り返しが共同経営の在り方に映るのです。小さい経営であればそうとしか思えません。
※その時、額面が表示されていなければ改めて株券を発行する必要はありません。
一方で、上場株式の取引は、株主とは名ばかりのお金のやり取りが見られるだけで、実際にそれで会社が資金繰りできているようには思えません。
新規に株式を発行したりすれば、確実に会社は資金繰りが適いますが、近年では、株式転換予約付き社債という資金繰りがされており、結局の処、株式は出資側の紙切れです。そこに見られるやり取りが資金源であるとすれば、株取引に用いられる特別口座そのもの(発行株の総額)が上場企業のみなし金庫にあると考えられます。
つまり、時価総額以内であれば、会社側は特別口座から引き出すことが一回分は適う仕組みです。
ただし、評価総額でそっくり引き出してしまえば、株式総額は実質空っぽです。
入れ直す裏付けや動機がもたらされなければ、経営赤字は危機感に直結しますから、そうそうに引き出せるわけではありません。
そして、引き出すもしくは金融から資金調達するにしても承認が求められます。
裏を返せば、一日二日の連騰など何の役にも立たず、かといって市場全体で上がっても、上がり続けるか、価格が維持されない限り、資金調達は不可という内容です。
一度下がって再び上がっても、その都度発生する株価変動から総資産差額を会社側が運用できるかどうかは微妙です。
会社側にメリットがあるとすれば、株式の値上がりをあてにして、以前に引き下ろした、もしくは、銀行から借り受けた過去の金額に対して評価差損が発生しにくくなった。それだけです。
このような解説はたいてい素直にされていませんから、金融の隠しカラクリがあると見られます。
この解釈がズバリにあれば、株式市場とは確信犯的な詐欺の現場にあたります。
たとえばこうです。
株式が上がれば上がった分だけ会社側が引き出してもなんら問題になりません。それが株式だからです。もちろん承認は必要です。
一方で個人投資家は勝手気ままに売買しています。それも株式です。
そして株式からの手付けを承認されれば、一時的に値下がりするのが辻褄というものです。承認の結果、中身は引き出されて実態が減りますから、減るのがわかっていれば誰かが大きく売るわけです。
そして、差損の発生しない時価総額の付近で買いが再び入る感覚に落ち着きます。そうでなければ株式勘定に意味はありません。※上場企業には持ち株数維持という株主権の絡みがありますが、信用取引(空売り)であれば、持ち株を維持させつつ第三者に取引させることで成り立ちます。
そしてそれが成り立つのも銀行が持ち寄りで、役員を送り込んでいればこそです。
その時、銀行は市場から個人投資家のお金を巻き上げる形です。そうでなければ銀行にも上場企業にも旨味はありません。
つまり、引き出した金額分を売って、思惑通りに値下がる&引き出した金額分にあたる底値圏で買い漁れれば、会社側の株式には常に実態がある裏付けが成り立ちます。
あとは経営が軌道に乗っていればさえ、値は戻るという勘定です。
そうでなければ株式に実態などあるわけがないのです。そう思います。
そして金融側が相場で勝ち続けることは、市場デフレをもたらし、金融インフレをもたらす構図となります。また反対に、金融側が個人投資家に圧倒されるような事態に陥れば、その銘柄は銀行と組んでいる意味など空しく、実態運用のまるで成り立たないただの紙くずです。
つまり、市場を通した売買方式は不遜な概念にしかあれない仕組みなのです。
そこで株式と一線を画するべきにあると求められて、新たな資金調達方法が検討されるならば、売買方式は放棄されるべきに思われます。
即ち、民主主義的なルールに則って通貨発行権のあり方からその議論が問われるのです。
さて、粒式では{経営者=社員=出資者}であることが前提です。
そもそも株式に見られる上場企業の赤字構造には、自分たちの損が首切りで済むならまだしも、第三者を巻き込み、その無責任な裏返しの証として、他人の腹をも切らせる被害拡大をもたらします。
そのような欠陥を鵜呑みにして、安易に株の発行に走るのは経営側の哲学なき暴力です。
そこに首を突っ込む第三者も第三者にありますが、自ら出資することのない社員が首を切らないで欲しいとの一点張りなのもおかしな見解です。そう思います。
つまり、株式では民主主義は成立しないのです。
共同出資が前提にあれば、俺だけの首を斬るのは不遜だとの論理も100%まかり通りますし、第三者の出資にあっても、社員教育ぐらいは参加するべきとなるでしょう。
第三者たる出資だけの存在にも、火事場の協力を無償で引き受けさせるぐらいがフェアーなのです。それがコスト削減になるのであればそうするべきですし、会社にはその権限があると信じます。でなければ第三者の立場で配当をもらう資格など二の次であるべきです。
そもそも第三者からの発想を会社側が期待するのであれば、第三者にもユニフォームを配って、経営の現場に顔を出させるべきなのです。実体が伴ってこその経営への発言であるべきです。
企業機密との見解も絡みますが、経費削減や健全経営に確信が得られる範囲であれば、なんら問題は生じないと思います。
何よりも、社員の顔と出資者の顔を確認し合うことが肝要です。
国民主権発行を監督する行政が、発行権を担う場合、社内留保(共同経営なら共同財産にあたる。ただし個人分配をモットーにするのならば、分配を証明できる形式が求められる。)が通帳に記載されていくような在り方があっても不思議ではありません。
そのような通帳に記載された金額を持ち寄って、その総額を裏付けとするのが粒式です。
個人だけの権限では、安易に引き出せない預金として規律立てることで、従来に見られた預金スタイルとの違いを見いだすことが可能です。
それこそが、お金が溢れているのに、溢れないという流れを生むと予想立つのです。
粒式は共同経営ですから、粒式の溜まり具合も公平に分配される勘定です。
つまり、利益があり、引き出された金額以上に分配が発生すれば粒式が増えることになります。
行政銀行はそれを裏付けとして無利子で資金を貸し出します。
なぜそのようにするかと言えば、安易に引き出せないことを意識付けさせるためです。
行政から借り入れたとすれば、必ず返さなければならないという意識が働きます。
また、行政銀行に入れ直させるようにルール付ける習慣は、経営に参加しているという意味合いがお互いに高まると考えられます。
経営が行き詰まり返済の目処が立たずとも、借率が1倍を超えなければ無借金経営と同義です。
その時、赤字続きで返済が滞ることは、預金の減額を意味しますが、粒式の場合は、発行権を管理する行政がわざわざ市民から財産をむしり取っても無意味です。国民主権発行であればなおさらです。
そこで、経営が行き詰まり、返済の目処が成り立たなくなった‥つまり粒式が底を付き0もしくはマイナスになくなった事を理解した会社は、行政側に救済(罰則的な作業)を求めます。
行政はその求めに応じて、無償で作業をしてもらうことができます。作業をしてもらうことで見なし返済とするのです。所謂、半民半官構造の採用です。
見なし返済と言っても、元々は経営側の自分たちのお金ですから無借金です。
でも、元手が空なのでにっちもさっちも行かない事に変わりません。新たな出資者を募るのも手ですが、もはや手遅れにある状態と考えられます。
そんな会社を行政が発行権をかざして安易に発行救済したところで不公平です。
すでに生活の保障が、生存権通貨に準じた発行で成り立っているとすればなおさらです。そこで、貸借分にあたる作業を行政側が無償で命じるのです。無償と言っても、作業に経費が掛かるのならば行政側も負担しなければ成り立ちません。
無償で仕事をしてもらうことで、返済と見なし、粒式預金の全額を保障すれば、行政は無駄に予算立てを検討する必要もなく、かつ、救済会社の業務内容を活かして再建作業を指示できる仕組みです。
その後、会社側が同じ経営を続けるか、解散するか、再編するかは会社側の判断です。
また、個別に粒式が保障されていれば、それを元手に起業することも転職するこも可能です。
退職や退社であれば、それを切り崩せるとすることで保障制度たれるのです。
会社の経営が地域社会に貢献しているのならば、その会社への融資と成果の蓄積の累計となる粒式記録は明らかに個人の地域貢献に対する実績を示す足跡であり、名刺たれるものです。
実績を示すには、額面の加算される様が手にとってわからなければ用を為しません。
通帳のような形式であれば、一目瞭然に思われます。
一見、それで経営が成り立つのかと、大企業ほど思ってしまうように思われますが、地域分権に地域行政を主体に置いた活動であれば、事業による天下取りは必ずしも必要ではありません。
それでも国際化の現状を鑑みれば、半導体事業のように一極化していた方が都合の良い業種も見られます。それはそれで行政が積極的に関わるなどの棲み分けは必然的に為されるべきに思われます。
腐るお金との絡みは、次の記事にて紹介します。
2009年12月12日
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