2010年01月20日

タクティカルRPGに民主主義は見いだせるか?

 タクティカルRPGのシステムは実に資本主義を臭わせます。
その手のゲームをプレイしているとつくづくそう感じます。
 大戦略のような現代兵器を主体とした戦略ウォーシミュレーションでは、都市を占領することで兵器生産の予算が得られ、生産の出来るポイントで生産をする形です。
敵対国との戦力バランスが取れているときは前線が築かれ、ゲームとしては盛り上がりますが、その均衡が一旦崩れようなら、生産力に差が付いてしまう事からどうにもならない消化作業をどちらにも強いるだけに落ち込みます。
 その手の消化ゲームを、ゲームであればもっと楽しく進められるように工夫すれば、ゲームとしてゲームらしくなると思うわけですが、そんなことを思ってしまうのも、現実社会と比べてみたり、日本の遊び文化と世界の遊び文化との差を思えばこそです。

 例えば、遊びですから、{破壊された数}≒{生産された数}が負けた側の状況であれば、前線が崩壊したことで、撤退し、それ以上のユニットをむやみに失わせずに後方に集めて、最終的には相手の兵器を破壊した獲得ポイントを競うという発想であれば、ポイント差での逆転を目論むという粘りをゲーム性に取り込むことも出来るわけです。
 それが民主主義的かどうかは別として、ゲーム性のモチベーションを保つには、それなりの一工夫が必要だと思います。でなければ、対人で遊ぶというゲーム文化には弱肉強食を煽り立てるような取っつき難さしか育たないように思います。

 それはつまり、ゲームと言えどもリアルファイト張りに、徹底的に仮想現実と化す発想が本当の意味で楽しいのか否かです。
 マンガにおいても、リアルの武道とスポーツの武道の差を区別する思想があります。それはそれで人間性の持ち味としてはおもしろいと思いますが、この辺の徹底思考は、民主主義の市民意識からみればクレイジーでしかありません。
 だから良くないという視点ではなく、ただ民主主義として考えたとき、どこに主体を求めるのかという理念は重要だと思うわけです。

 例えば、柔道や剣道です。
技あり有効と追いつめられていても、一本でひっくり返るわけです。
それがゲーム性です。肉体を駆使すれば競技性です。
 実践の命の取り合いでは、技ありでも有効でも命取りになりかねません。一本などは無いのです。たとえ一本とばかりに状況がひっくり返ったとしても、生還できるかどうかに保証など無いわけです

 チェスと将棋では、取った駒を使えるかどうかの差ではありますが、その差は騎士道と武士道の差のように思えます。
 その昔、天下を取ることで戦が無くなると誰しもが思っていたわけですが、そんな戦を認知しあっていたのは世界広しと言えでも日本の戦国の世だけです。
それはつまり、天下をまとめるための戦という風情が将棋の駒に反映しているように感じられるのです。味方をすれば重宝されると言ったところでしょうか‥
 ところがその一方で、取った駒を使わない概念は、覇者として勝利した一族で側近を固める事を前提としている概念の現れのように感じられるのです。
それだけの文化の差、民族性の差がそこに息づいているように思います。

 花札なんかも意味深い所があります。
花札に見られるこいこいルールは、持ち越すか持ち越さないかが株式トレードに似ていると思える点は資本主義的だと思いますが、ところがどうでしょう‥麻雀やトランプでは、勝つことを主体としていますが、勝ったのにわざわざ相手にも起死回生のチャンスを与える要素が花札にはあるのです。実にユニークです。
 で、ついでながらこんな日本的な古典ゲームを今の時代なら武将の顔に置き換えて何か出来ないかなぁと思ったりします。タイトルは「天下札」なーんてね。
ゲームとしての売りは、武将にまつわる伝承を織り込んだ人間学を学ぶための要素を花札形式に取り入れられるかどうかです。
ただ、札の総数をどれぐらいにするべきかを決める上で知識が足りないため、アイデアとしてまとまっておりません。(※ちなみにこのアイデアの活用は自由です。)

 話を戻しましょう。

 言いたいことは、人生はゲームではないと言い張ったまま、斬った張ったにしかあれていない弱肉強食な経済ルールと対峙するだけが人間の織りなす文化性ではないと言うことです。
 そしてそこに革新をもたらすことが出来るのは、ゲームにおいてさえユニークな発想を見い出してきた日本国だけなのだと思えるのです。
 生きやすくするための改革を求めればこその文化です。
{リアル=弱肉強食}である必要は民主主義において必ずしも必要ではありません。
ゲームだからと言わずに、そう言う所から、民主主義としての在り方を模索する態度は大切だと思います。
 仮に、弱肉強食からなる克己心であらねば人生へのモチベーションが保てないというのならば、そこに民主主義の育たない原因を、その人自身が自分の生きる世界観の中に持ち込んでいるという以外のなにものでもないと言えるだけです。
 すべての人がそのようなモチベーションのままに生きたいわけではありません。
民主主義とは多数決制と言われても、それ以前に、人権の保障それ自体が国民主権の主体として存在するのです。どちらの方が重いかと言えば、後者なのです。そう思います。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:11 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする
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