2010年01月27日

民主主義と集合意識

 みんなで考えることは概念として成り立つものの、実質的な全員参加は得られない。また、ひとり一人の細かい意見は、多数派の前においてはノイズにしかならない。
それゆえに、民主主義なる思考は多数派意見が大手を振ることになる。
 そして、大抵の意見は二つの傾向に落ち着く。いわゆる保守勢力と革新勢力である。
それでもおもしろいことに、本当の意味での斬新な物事というのは、民衆の暮らしの意外な所から発生するものである。
 そう言う意味では、形式的な話し合いの場というものは、議論すべき対象というものを点で見ることをもって論ずるの感覚でしかない。それが日常である。
そんな在り方に意味などあるのだろうか?

 仮に地球を眼下に眺め、すべての人の思考が手に取るように見えているとしたら、どうだろうか?、誰しもはそこに新たな好奇心を抱き、斬新さを求めて事細かに分類し出すはずである。
 それに基づいて様々な意見の仕分けが為されるのであれば、科学的かつ合理的に適材適所で対応することの民主主義の本質が成り立つと、誰しもは思う事だろう。
 仮にここではそれが可能という立場にあるとしよう。
それはまさしく神の領域である。そう考えられればそれが一番なのかも知れない。
 しかしである。誰かが奇妙なことを言い始めたり、新しい何かを興したりすれば、それにどのような反応を示すのかを予想立てる段階にでもなれば、結局はその認識において個人差が生ずるのである。
 そして、人であろうと神であろうと、それの予想をより適確に言い当てる存在を優れている者として認識し、優れている存在の発言を注視するものである。

 それでもおもしろいことに、本当に優れている存在は、納得の出来るまで物事の流れを冷静に見定めるまで動かないものである。
ゆえに、本当に優れている存在は、独創的な意見を述べる所がほとんどない。
 断っておくが、是は間違っても独創性に疎いという意味ではない。独創的な意見を述べることに興味がないと言った風情にあるのだ。
なにしろ、誰がどんな反応を示すのかを適確に見抜いておれば、それの適任な者に言わしめれば良いだけである。
それをもって誉めるという影響力に関心を抱けばそうなるであろう。その逆も然りだ。
 ただし、そこに根ざすものが、悪意であるのか善意であるのかは渦中にいるとこれがなかなかに見分けが付かないものである。
それゆえに独創的な事を語る立場の者は、独創的な意見を述べておしまいとするのが賢い生き方となる。
自ら動くことでのリスクに何のメリットも見いだせないと思えばそうなるであろう。

 さて話を戻そう。

 より優れていると言っても、その前提において何でもかんでも自由に事を成して宜しいと決められていれば、そこには派閥が発生することになる。
つまり、趣向の違いで意見が分かれるのである。
 その時、本質的に優れた存在がその派閥内のリーダー格になると言うよりは、如何に強い主張を声高々に述べられるかの才覚こそリーダーに相応しいと言えるだろう。
もちろん思惑という要素があることも外せない。
なにしろ自由にやって良いのだから、むしろ、そちらの方が優先されるはずである。

 結果、民衆は優れているという云々よりも、自分たちがどうありたいかを主体として、派閥の宣伝に乗っかって選ぶ傾向を見せるのである。
 余裕があり、とことん自由が信条だと思えば、自分たちの思惑により従ってくれるメンバーに投票するだろうし、乱れて来て、モラルが重要だと思えば、斬新な意見などどこ吹く風で、真面目にやってくれればそれで十分の選択支になるだろう。
 そもそもにおいて、悪化の一途を辿らない限り、本当の意味で再建するための発想を求めるなどあり得ない傾向なのも民衆である。

 なにしろ民衆は、発想と実行とが成り立って執り行われる‥在るべき日常というものが、自らの問い掛けの中から生ずる譲ることの出来ない絶対視野から端を発することを知らないからである。

 実権を握り、その旨味を啜る側が常に全体の三割を満たし、そのおこぼれに有り付く側が全体の二割であれば、それで半分である。
景気が良ければ、過半数を占めるのは道理、それが民主主義の盲点である。
「一体全体、民主主義とは何であったのかである?」
弱い立場の側を何とかするための選択肢の一つに民主主義という見解があった。そう思われるわけだが、その決め事の論理の足元に注目する者は実に少ない。
また、そうでないのであれば、うまい汁を啜るための選挙云々が民主主義ということになる。いわばマジックショーに近い。

 そもそもにおいて、民衆とは、どうありたいかうんぬんよりも、何を体験してみたいのかという日常の衝動の方にこそ意識の針が傾くものである。

 個人においてもそれは言えるのだ。
どうありたいかよりは、何を体験したいかと言う思いで一杯なのである。
それが日常に好まれる「刺激」という奴だ。
自分の好みとする刺激を求めて動こうとする傾向に傾いて行くのである。
 昔からよく「初心忘れるべからず」「初志貫徹」などと言われるが、実にそのままである。
民衆のひとり一人が不動心乏しくまた思慮浅くしてそのようでしかないのであれば、民主主義とは、どうあるべきかよりは、何を興すべきかという哲学無き妄想的期待・アメとムチから成される活動的消費に陥ることを指すことになる。

 そこで、政は云々どうあるべきかではなく、民衆の意識傾向自身の中にある、生活自体についてどうあるべきかと思っている深層の部分で、常日頃から定まっている意識の指針の部分を捉えてみる必要が生ずるのである。
 民衆がそれを望んでいないなどと言うことはない。時代時代における集合意識下で確立しているだろう部分部分を掘り起こす事が、政を見極めるにおいて重要な意識の辿り方である。
 意見を聞いて給わるのではなく、自ずから民衆として持ち合わせている感覚に聞いてみるのである。
その時、自らが民衆の感覚から掛け外れていると自覚されれば、その感覚がどの辺りを徘徊しているのかをまずは探る必要が伴う。
 そして、これらはまず、各人ひとり一人の個人意識の中で行われるべきである。

 すると、集合意識下において回路が繋がり、お互いの中で、在るべき事が成り立たないという仕組みに、とことん憤りを覚える事になるだろう。
何を興してくれるのかではなく、どうしてそれが成り立たないのかを問いたださずにには居られなくなるのである。
 当然、流れとしては、在るべき形にしておくことに理を覚える事になろう。
それが民衆としての己であれば、そこに到るはずである。

 在るべき形になることで、在るべき形として織りなされるであろうひとり一人の中に咲く文化性の違い‥それ自体との交流こそ民主主義として保たれる姿である‥人権の尊重とはそういうものである。
そのための最低限の事は、政が采を奮って取り計らうべきである。
 生産・物流・分配に、いつまでも権益を競うのではなく、在るべき生活の形として、成り立つべきは成り立たせ、個人の中から目覚めるだろう才能や価値観、その違いを文化性の交流として尊重し合える生活感こそ民主主義としてあるべき姿勢である。
そのように思う次第である。
 また民衆もそれを理解できなければ、完成形は成し得ない。
そして、生活をしているのは民衆である。御大層な理想論や理想家ではない。
現状は少なくとも公平な状況下にはおかれていない。可能性の追求においてその足元に公平性が成り立っていないということだ。
民主主義に対して、物質的な公平さの主張として対極を為す思想があるのであれば、そう言うことになる。
 民主主義の名において、個々の人権尊重として、人生の可能性の追求における最低限の生活基盤という公平性の確保が成り立つべきだと誰しもは思っている。
花は誰しもに咲いて然りである。
しかしそれに向けられた政は何一つ為されていない。
それはまた民衆の側にも言える。そこに民衆の意識の針が向いていないのであれば当然の結果である。

 ゆえに、民主主義が進化を果たすためにも、すべての意識は深層下において繋がるものであるという集合意識への理解と学問的な確立とが求められる事になろう。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:01 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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