2010年01月28日

集合意識とその学問的観察

 集合意識なる言葉そのものは、精神世界で用いられている特定の意識を指す用語です。
なんでも宇宙における実験の星である地球において、始めて採用されているシステムだとかなんとか‥
 単純に見れば、人類の総意です。是には民族単位などの総意も含まれます。総意でありながら、それ自体が個の意識として機能していると言われています。
語られている表現において、そのように判断できる範囲でしか述べられませんけどね。

 しかしながら、そんな情報を基に、昔からの人間の行動を社会学と折り合わせてみるとふとした感覚に導かれるのです。

 例えば漢字です。
 平安時代辺りで言えば、漢字を読み書きするのは一部の階層の人達だけでした。
そこで得られた集合意識としての情報は、日本人に求められる古き伝統もしくは教養として蓄えられているように思われます。
 ところが、江戸時代あたりでは、寺小屋による読み書きの学習が進み、多くの方が昔ながらの教養を受け継ぎます。娯楽と言えるものがそれほど多くない時代でしたから、みんなで同じ教養を身につけたわけです。
そこには日本人として斯くあるべしと言う精神性が蓄えられたように思われます。
 時代は下り、戦後教育として一貫した横文字学習が導入されると、横文字が生活のあちこちで用いられるわけですが、そこで記憶され始めたことと言えば、欧米化です。
 漢字での置き換え表現を試みていた明治とは異なり、生活様式そのものに当てはまる要素が失われ始めたのです。
その結果、日本人の気質に変化が起き始めました。
それから後、急激な変化が起こります。それがIT革命です。
 会社でもPCを用いることが当たり前となり、その流れとして文字そのものを筆記する機会がめっきり減りました。
その結果、文字と接しているにも関わらず、漢字が記憶の中から浮かびにくくなってきたのです。

 是が社会現象であれば、このように推理されるのです。

仮説1‥記憶というものは、現象一物で蓄積される一面を備え、それは社会現象(共有体験)においても強化・共有されるものである。
従って、生活様式が一極化していた時代と多極化している時代とでは、時代に反映される記憶の度合いに社会現象としての濃淡が生ずる。
 それはまた、個の時間に創出される喜びと、他と共有していた時間に創出される喜びとに差があることの理解でもある。


 では次に、主食文化です。
日本人で言えば、お米です。それの変化が起きたのも戦後です。
米国の経済戦略とか言われていますが、食の記憶として一貫した流れを想像するのであれば、胎児の頃の記憶に影響があるように思われます。
 その根拠は、胎児の頃の栄養を考えてみたとき、昔のそれとは明らかに様式そのものが異なります。その記憶の中にお米を食べる喜びが少ない胎児は、その後もお米に関心を持ちにくい。そう考えても不思議はないと思います。

 そして極めつけは給食パンです。
みんなで食べた記憶が鮮烈に刻まれた生活習慣です。
それが集合意識に影響を与えた‥その一面は否定できないと思います。
そう言う見方においては、米国の戦略は功を奏し、食の欧米化は加速したと言えるのです。
 また違った見方をすれば、戦中・終戦直後の主食とされた芋に対する偏見は、日本の歴史上飢饉の記憶と合い重なって、かなり根強く記憶されているように思われます。
 さらに時代が下れば、様々な加工食品が登場してきます。加工食品を好む人もいれば、外食ばかりの人もいると思います。そこで賄われている食材は輸入物であったりするわけです。

 結果、食生活が地場然で一極していた時代は、同じ釜の飯を食うのと同じで社会全体にも一体感が醸し出されていたが、そうあれない時代ともなれば、一気に老若男女を問わずして一体感にかけ離れた空気が醸し出されるようになった‥。
 特に記憶において述べるのであれば、日本人は地場の米を食べることで、先祖と繋がる記憶というものが精神性という一面に確立されて来たとすれば、それは集合意識の中で人格化している側面もあると予想されるのです。

仮説2‥集合意識に蓄えられる情報には、時代における一過性と、時代を超えた所で蓄積され形成される人格性との二つの側面が想定される。


仮説3‥仮説1と仮説2より、人間ひとり一人の個の意識は、常に集合意識の影響下におかれる。是により、より全体での場で一体感の起きている方が、集合意識にも隆盛が生じ、個人の能力にも特典が付加されるものと予想される。

 仮説3の説明現象としては、何事に関しても日本人は弱くなったとお互いの口からこぼれるようになった‥それは男女の関わりにも言えそうです。定量的実験の代わりとしてそれらが挙げられます。なにぶんにも分野は社会学ですからね。
( さらに是の予想として、戦国の時代の方が現代人の科学的なスポーツ訓練などより、より身体能力において秀でていた何かがあったものと想像されるでしょう。
でなければ人力で石垣など築けない‥と思います。)

 経済の二極化による多様化の推進は、仮説3から導かれる現象そのものに拍車を掛けるものであると予想される事になります。
なぜなら、今の不況社会への拒絶感が大きくなればなるほど、そこに生ずる生き甲斐そのものへと拒絶感が及ぶからです。
それが負の集合意識ともなれば、結果は自ずと想像に難くないわけです。(※犯罪・自殺・奇病の増加など‥)

仮説4‥共有における喜びへの多様化は、集合意識においても好奇心の拡大として受け入れられるが、そうでないのであれば拒絶されると予想される。
ただし、仮説3からなる心相エネルギーと覚しき現象面への投影は、両極性において起こらなければ、エネルギー現象として相応しくない。ゆえに両極面への展開が予想される。


 仮説4に関しては、地球におけるシステムとして人格付けられた側面と思われます。
それはまた人間自身の生き方にも通じる所です。
それを本能と申し上げても過言ではありますまい。

仮説5‥仮説4より、心相の具象化には、集合意識の承認が程度無意識下において反映されるものと予想される。
 これは個人の努力や能力を越えた全体での総意に影響されると思われるわけだが、時代を超えて成り立つ側面もあることにも注目されたい。
また、これにより、心相下に形成される心相エネルギーは、物理現象として具象化される方向性を持つと予想される。


※心相:日常心理から深層心理までを形あるものとして認識し表現した造語
※心相エネルギー:形あるものであれば、そこになんらかのエネルギー現象が発生していると考えられることから、想定的にエネルギーとして認識し表現した造語
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:35 | Comment(0) | 破棄処理中 | 更新情報をチェックする
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