1-9)改稿.2014/10/20...20100315...
> 戦国の世、下克上の下とは忍びのことであった。
> その象徴こそ、誰あろう豊臣秀吉だった‥などと推論してみよう。
ついでに、秀吉と仲の良かった前田利家もまた忍びである‥そう判断しておこう。
他にも怪しい人物はいろいろといるだろうが、とりあえず前田利家である。
加賀百万石の農政制度(十村制:とむらせい)
越後の薬売りからなる販売権の独占(時代は江戸に下るが‥)
前田利益(慶次)の歌舞伎振りが大名たちの前で不問である点、徳川家との婚姻関係‥等々
‥どれをとっても忍びの習性そのものかと。
忍びゆえの村統制・結束力、薬の知識、スパイ、両建て懐柔策‥である。
それはそれで、利家の方が忍びとしての立場が上であり、
秀吉の方が下だったのではと思わせる所だ。
なにしろ忍びの本懐は、目立たぬ事、忍びであることを気取られぬ事なのだから‥
一族勢力が存続して行くためにも、それなりの手を打っていたに違いは無いと思う。
1-9)1
なぜ前田家は一向宗勢力を取り込んで存続できているのか‥
大坂の土地柄もまた一向宗の地場であった‥謎は大きい。
ここで重要なことは、彼らが結果大成したという事実である。
忍びは武士の下に位置した身分だった。
忍びと知られれば、出世にはかえって遠ざけられた可能性も考えられる。
そこを避けるためにも、百姓の出自としてあいまいにしてあると見て良いと思う。
‥忍びとしてのみ扱われてしまう偏見や不甲斐なさを忌み嫌ったかのではないかと。
そんな下っ端勤めの時代からおさらばすべく現れたのが、
誰あろう能力主義者の主君、織田信長だった。まさにチャンス到来だった。
間違っても、真面目で不器用な一介の百姓が、
戦場でそつなく手柄を立てて成り上がれたなどと錯覚を起こしてはならない。
手回し根回しの目聡さを歴史から見抜くべきことだ。教えられていてこそなんぼである。
‥文字がすらすら書けているという点も見逃せまい。そういう時代だったはずだ。
> 忍びとしての腕を自負すれば、競って配下にすべり込もうという話にだってなって来よう。
忍びは影の薄い存在だったから、表舞台に立てると言うだけでも有り難かったはずだ。
それはそれで、端から天下を取るなどとは狙っていなかったように思われる。
‥信長の死を知った秀吉の落胆ぶりの言い伝えを思えば、主あってこその忍びさながらではないか。
まずは、忍びとして生き残る上での知恵だ。
各地に散らばっている仲間との連絡は欠かせない。
仕えている主君から言われるまでもなく、自ら分散して、
それぞれの勢力に取り入っていたとしたら‥戦国時代のもう一つの闇が見えて来よう。
それが生き残るための両建ての術といえるのだ。
‥それこそ百姓出自では想像もできないことである。
そもそもにして、百姓で字が読み書きできた時点で凄いことだ。
少なくとも商人絡みか坊主絡みでないと書物を手にすることなんて出来なかったはずである。
また、
一人だけ達者でも何の意味もないのが、武士という世界であった。日本の土地柄である。
仲間が居てなんぼなのに、どうして百姓身分で武士出自身分連中から対等に扱ってもらえようか。
‥信長だからというだけでは通らないのである。
1-9)2
> 忍びとしての一番の食わせ物こそ、初代/服部半蔵保長である‥としてみよう。
(話はいきなり切り替わるが、こちらがメインである。)
※ 伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たないとされる。
‥ちなみに、服部半蔵の呼び名は、一族間での襲名である。
保長(やすなが)の性格はきわめて忍びであったという。
戦国の時代初頭にあって、闇のままに生きることを忍びの本懐とした男であった。
それが何の因果か、松平清康と出会い、意気投合して清康に仕えることになった。
(‥忍びであるという負い目から、保長への待遇は良くなかったのだろう。)
> 保長に出会った後での清康の勢いの裏に伊賀忍者有りとしてみよう。
どう見たって、伊賀忍者の活躍は否定し切れまい。
であるならば、不満で仕方がなかったのではないかと思われる。そう推理立ててみよう。
伊賀忍者の長は、なにくわぬ顔でこう考えた。
‥一族を食わせるための策として、
今川や織田にも手を伸ばして仕事を請け負っていたと考えてみよう。
ならば、森山崩れの謎に手がかりが掴めそうではないか。
‥満足できるものが得られなければ、主君の命すら両建ての担保に商いの対象にする。
そこに、忍びが一族として生きるための知略があった‥そう考えられるのである。
もっとも、
牽制し合っている地域バランスが崩れれば自分たちの身も怪しくなろう。
それはそれで、微妙なさじ加減が求められたのは言うまでもない。
忍びの長として、そこに才覚があったのだと言えそうではないか。
1-9)3
そんな父の生き方を見て育った二代目服部半蔵正成は、武士として生きることに固執した。
それだけの価値と刺激が、家康の周囲にはあったのだろう。
しかし、
自分の一族が、自分の主君の先代・先々代を斬り捨てているなどとは口が避けても言えぬ事‥
‥その複雑な想いが、信康自刃事件の時に明実に現れることとなった。
信康自刃事件の裏にある必須条件として、
織田家と伊賀との関係を信長が知る所だった点を考慮しなければならない。
ここでは、家康の立場がまだ弱小勢力だったこともあり、
正成もそれとなく従っていたと想像してみよう‥
> この辺りは、説得材料が見あたらないため、かなりこじつけに映ろうか‥しかし
その時の信長の腹としては、今川の血をどうしても始末しておきたかったはずだ。
たとえそれが弟分の嫁であろうと、嫡男であろうとも容赦はなかった。
五徳の輿入れも同盟とは裏腹に、
それの穴埋め、もしくはスパイとして用立てていたとしても外れているとは思えない。
(‥桶狭間の戦いでも、信長側の忍びの絡みは色々と噂に上っているほどだ。)
だが、
五徳の身分を担保できなくてはこの手の策は意味がない。
信長としても、そうそうに織田と今川の血を引いたガキができてしまっても困るのである。
‥その面倒を半蔵にゆだねていた。そう考えてみよう。
1-9)4
徳川にいる伊賀者が、織田家に通じていなければ、
あの手の五徳の苦情手紙が平で届くなどと‥あり得まい。
> そもそも‥築山殿が武田と通じていた類いの行動が、そのままに通るわけがないのである。
でなければ何のための伊賀者だろうか‥仮にも、忍びの中の忍び一族である。
その長が仕えているのだ。徳川に不利になる条件を整えさせてしまう意味が不可解だ。
‥忍びの長として、精細さに欠けていると思わないだろうか。
正成としてみれば、すべてを知っていながら、時には仕込みをして、
素知らぬ顔で機会をうかがっていたとなるだろうか。
その辺り‥信康殿はともかく、最低でも築山殿には消えてもらわなければならない。
でなければ、この縛りからは逃れられないと思っていたはずである。
事あらば、信長からの信康暗殺の指示は出ていたと思われる。
‥と言っても、そうそうに消せと言うほどではなかったのだろう。
なにしろ信康は信長より「信」の一字を与えられている。
信康が今川解釈から恨みを持たぬように、先回りして寛大さを示したも言えようか。
そう見れば、信長は、築山殿が居る限り伊賀は使えるという目論見だったと思われる。
1-9)5
> 徳川方の家臣団としても、
なにかと揉め事の絶えない築山殿の存在は、
お家分裂の火種を背負っているとして、忌み嫌われていた感じでもあった。
‥それらすべてのゴタゴタを忍者者に任せるというのは、筋書きと言えば筋書きである。
しかし、
正成は信康の介錯役を蹴ったのである。
これは信長にしてみれば静かなる縁切りとして映ったはずである。
「‥もう、伊賀は信長の指示には従わぬ。」
それはまた、家臣団に対する忠誠心や人間性の見せ所となったのだ。
そこで安易に介錯の役に甘んじてしまえば、
生涯信長の縛りに甘んじる由を承知した立場での話となってしまうのだ。
1-9)6
> 少し戻って、保長は明智光秀と面識を持っていたと推論しておく。
> ここがもっとも重要なポイントだ。
保長はもともと足利家に仕えていた身である。
光秀もまた足利家に通じている身、顔を知らないままだったという考えの方が不自然に思える。
光秀もまた忍びだったとまでは言い切らないが、
忍びでなければないで、保長と意気投合したことになる。ここではそのように推論しておこう。
(この辺りの解釈もひじょうに苦しい‥)
尤も、光秀が忍びであったのならば、足利家自体に絡んでいた別の忍びの一族が他にも居て、
その者たちが、足利家に代わる拠り所を画策していたという話になってくるだろうか。
とりあえず、
保長と光秀が通じていたという推論ならば、光秀は伊賀よりの立場と考えて良いはずだ。
それもまた、信長の知る所だったとしたらどうだろうか‥(ここもかなり苦しい解釈だ)
能力主義者である信長の元には、様々な忍びが紛れ込んでいたはずだ。
いつ自分が寝首を掻かれるかも怪しい限りなのだ。備えは必要である。
‥ならば、忍びの者を表立って仕えさせ、家臣に据えていた‥それが信長の器量だった。
忍びと言っても、当時の忍びはお仕えできてなんぼの立場だった。何の権限も後ろ盾もない。
信長はその心理を巧みに見抜き、
徹底的に光秀を見せしめとして、虐めの対象としたのかも知れない。
周りから見れば、有能なライバルが一人脱落の図である。
元から武士の者であれば単にそう映ったことだろう。
しかし忍びの者であれば、それを機に信長に取り入るチャンスとして映ったに違いない。
なにしろ光秀をダシに、忍びとしての自分たちの成果や忠誠心を示せることになるのだから。
武士出身の者たちを退けるのにも好都合だったはずである。
‥そして信長もまたその余興にはまって行ったのだ。
(その頃には信長とて、後ろ盾などなかったのだ。だからこそのおもてなし‥否、茶番だった)
(‥かといって、公家寄りの光秀にべったりでは、己のプライドが許さなかったのだろう。)
> またそうであれば、半蔵に向けての、信長なりの暗黙の警告だったとも取れそうである。
信長勢による伊賀の土地への執拗な攻めにしても、
信長自身‥もともと攻め滅ぼす気までは無かったのかも知れない。
なにしろ忍者の中でも一番に勢力のある所を攻め滅ぼしてしまえば、
伊賀者に限らず、他の忍者勢にも刺激を与えてしまうことになる。
‥それこそ、枕を高くして寝られなくなってしまうばかりだろう。
そこで、伊賀攻めが急転して退いた折の裏として、
服部半蔵正成による詫びの申し出があったとすればどうだろう。
もしくは、忍者勢に対して微妙な心理戦を行っていた‥そう考えるのもおもしろい。
‥お互いに、触らぬ神に祟りなしと言った所だったろうか。
1-9)7
> 半蔵と光秀が通じていた裏付けに、本能寺の変での伊賀越えが挙げられようか。
そんな関係であったとすれば、
光秀の謀反計画の脇から家康に参戦されては無意味になる。仲間討ちになりかねない。
(‥家康と光秀が通じていたとしても同じ事である。)
そもそも、光秀と家康との間の手はずを整えるのに、仲介役が居なければおかしいのだ。
そうでなければ、阿吽の行動には繋がり難い。
この手の筋書きの段取りとして、家臣の誰もが知らないというのではまるで意味がない。
まずは、誰が家康と光秀を引き合わせるのか‥
かような関係下にあったと思われる半蔵ならば辻褄が合うのである。
なにしろ、その時はすでに一族の郷里伊賀を信長に攻め落とされた立場である。
その怨みを晴らさずして、一族への長としての面目は立たないのだ。
何も行動を起こさなければ、一族の胸中からすれば、信用に欠いた長にしか見られまい。
> 逆から言えば、伊賀の長とて、手土産無くして無事に伊賀の里を越えられるわけもない。
‥家康が、半蔵と光秀の関係を知らなければ、是幸い正成にしてみれば好機だ。
徳川家臣としての立場を大にすることができるばかりか、
忍びの負い目を取り除くのに絶好の機会となるではなかろうか。
家康が本能寺の変の時分に、
なぜ、堺に小勢でいたのかを考えれば、なんとなく繋がりそうである。
しかも、徳川の重鎮が勢揃いしていたとの点が、実に奇妙だ。
‥そうでもしておかなれば、
光秀謀反直後の徳川家臣を制することは不可能だったと考えてもおかしくない。
天下をうかがう家康の本音で考えても、
疑われ兼ねない行動は、なるべく起こしたくなかったと思われる。
何人たりとも気取られたくないという意味として‥
(後に、石川数正が豊臣に引き抜かれているが、因果なものである)
1-9)8
その後の光秀の消息にしても、光秀自らが忍びでなくとも、
伊賀の者が裏で段取りを付けることで、どうにかなりそうな話になって来よう。
ただ、天海僧正の寿命が長すぎるため、"光秀"="天海"説を信じるに難い一面は残るのだ。
> 問題は光秀の動機である。
「信長を殺めたくなった意図とは何だろうか?」
「家康が光秀を信頼できた要素とは何だろうか?」
とりあえず、ここで論じた内容は、
正成の都合だけでしかないわけだが、光秀の動機には以外と人間臭い所があったと思われる。
> 信長が天下を治めたとしても戦は無くならないであろう‥
> それでは我々のこの世での戦には意味がない。
‥とでも、光秀が家康に持ちかけたとしてもおかしくないのだ。
家康としてもそれが本音だったのだから。
江戸幕府の統治がそれを物語ったと言っても言い過ぎではないと思う。
ただしそれはそれで、
武士の都合だけからなる、かなり身勝手な平和主義と言ったところでしかないわけだが‥
それにしても、三日天下が前提であったわけではあるまい。
その後はどんな計画でどんな手はずだったというのか‥そこもまた謎である。
秀吉の大返しは、どう考えてもイレギュラーだったはずである。
1-9)9
> ここで、竹千代・双子説である。
松平家では森山崩れ以降、一族の存亡に何かしらの不穏な空気を内部に感じていた。
だから、たまたま生まれた双子の片方を、
知恵ある者が即座に寺に預けたとの筋が想定されて来ようか‥
またその時分、服部半蔵保長は用で京に赴いており、その事実を知ることなく月日が過ぎた。
保長が、その頃ぐらいに光秀と知り合ったと見るのはどうだろうか。
そんな因果の果てに、天海僧正となった光秀が、
徳川家にゆかりの寺を散策するようになって、偶然にもその存在に辿り着いた‥
天海としてはどうしたものかと、家康本人にも徳川家臣にも黙っていたところ、
家康が戦で死んでしまったとの折、結果、
かの者を呼び出す段取りで、死んだ方を影武者と言い張る次第になった。
‥そんな筋で想像してみよう。
徳川家臣は度肝を抜かれただろうが、その当時、すでに徳川家臣の代は入れ替わっていた。
それが長生きの特権。天海の立場は一気に高まった。
右も左もよくわからない影武者家康の片腕になったことで、
実権を握ろうとするは当然の流れ‥なにしろ、江戸地の設計に関わった中心人物だ。
そのこだわりは人並みならぬものがあったと見て良いかと思う。
その執拗なまでの徹底ぶりは大奥にまで及んだ。
その存在こそ春日局だった。
大奥に紛れ込んでいた忍びの輩や他勢力を徹底的に排除するために
春日局は送り込まれたのである‥と、そう推理しておこう。
> となれば、徳川家光は入れ替わった葵と桔梗の掛け合わせであった可能性も浮上するのだ。
そうであれば、家光が家臣に言い渡した「余は生まれながらの天下人である」のフレーズは、
桔梗立場からの強かな宣言だったかも知れない‥
‥とはいえ、推論の域でしかない。あしからず。