2010年05月07日

「詰め込み」or「産み出し」

 エネルギーの流れは一定方向であった方が安定度は増します。
多方向への流動が如何に制御しづらいかは、その手の技術屋さんならすんなり頷けることだと思います。

 これを人間の思考で言えば、「詰め込み」と「産み出し」です。
単に「記憶」と「発想」と言ってしまってもかまわないと思います。
 つまり、覚えることに意識を傾ければ発想というエネルギーから遠ざかるのです。
その逆として、発想に意識を傾ければ記憶という作業はお荷物になります。
 それでも、一流の科学者のレベルにもなれば、一度見ただけでピタッと覚えてしまうような話もあります。まぁそれはそれです。そこで、覚えることにエネルギーを浪費しなければならない凡人クラスでしかないのであれば、どちらかを切り捨てた方が都合が良いと言えるのです。
 ただし、覚えることを捨てれば捨てるほど、集団生活ではバツが悪く格好が付かないのが日常です。「そんなことも知らないのか!」‥という具合にね。
 そして日本人のDNAは日々淡々とするべきことをすることで、無駄なく記憶と発想とがステップバイステップで身につくように設計されていますが、人間の好奇心というモノはなかなかにそう言うわけには行かないようです。
 安定を望めば望むほどに保守的となり、その武装的な発想として「記憶」という作業にはまって行くのです。自分の頭が生まれ持った以上に記憶力が望めないのであれば、記憶を酷使するのではなく、発想にも向き合わなければなりません。

 この発想と向き合おうとするとき、壁になるのが感情です。
DNAに刻まれたありとあらゆる記憶が、感情を鍵として吹き出ようと始めるのです。この良い例が恋愛です。新しい何かを産み出すことができなければ前に進めないという典型的な形です。好きと嫌いだけでは空回りするだけです。
 戦闘においても生き残るための重圧がそこにやって来て、様々な感情を排除しながら最良の選択肢を選び出す‥でなければ生き残れません。是もその一つの形です。
 つまり、記憶という作業は感情をストップさせている状態ですが、発想という作業はこの逆をする作業でもあるわけです。
 必要と思えないところに感情は生まれません。ゆえに発想も生まれません。
平坦な日常ばかりの心境が平和で一番であったとしても、発想を身に付けたければ、空想的な空間で感情の負荷を克服するようなトレーニングを積むか、現場で死や恥と向き合いながら自分の中の何かを克服するかのどちらかです。他に方法はありません。
 歴史に「もし」を持ち込みたくなるのもそんな思考の一部なのです。

 本の読み方一つにしても、詰め込んでいるのか、参加しているのかの差でどちら側にエネルギーを発散しているのかの違いが生じます。
速読がもてはやされる一方で、考えながら読んだり反芻したり読む習慣を持つこともまた無駄ではありません。
 ただその時、感情を絡めて考えているかどうかが重要です。なぜならそれが経験したという実際の体験と程度似たような効果をもたらすからです。
 そのポイントは、自分であればどう思うかです。
次に自分に様々な条件を与えてみて考えを膨らますのです。その蓄積の結果、自分の立場以外からの視点や着想が湧くようになればしめたものです。そこでも様々な感情の在り方の活かし方を問うのが鍵なのです。
 そのとき、日常の基礎知識や常識が深ければそれだけ立体感のある思考になって行くわけですが、そこに思い込みや個性があればどこまでもそれはついて回ります。
 発想のオリジナリティーにこだわればこだわるほど、行き着くところは墓場や牢獄で天国を語れるような境地の想像なのかもしれません。そんな人は普段どんな思考をするのでしょうか?
 ふつうに暮らしていられれば満足な人にそんなことはどうでも良いことでしょうが、発想とはそんなどうでもいい感情から成り立つ選択肢を知りたいと思うような好奇心の積み重ねだと思います。ある意味変態なわけですが、人とは違う奇妙な部分は、実際誰にでもあると思います。
 お互いがそこに気がつくだけでも、今までとは違う発想の糸口になれると思います。
マンガの世界観なんか良い例でしょう。


 たとえば、ネガティブとポジティブです。
ぼくの発想の中にはあえてネガティブな要素を排除している嫌いが見られます。
あえてしているわけです。
 すると戦争とか武装とか競争とか、なんかそういう野生の世界観のようなものをいつまで持ち込んでいるのか?‥という視点に映るはずです。
 特に平和主義と言うわけでもなく、国防論でガチガチの人から見れば、そこにある政治・経済の話の下りにおかしさがあるように見えてしまうはずです。
 しかし、あえて外してしまっていることで見えていなかったものが見えてくるはずです。逆から言えば、これまでの政治経済なんてものは、国防論でガチガチな世界観でしかないという事になるのです。

 「人間同士で敵視し合っているモチベーションて何?」

 答えは決まっています。思惑です。憎悪です。ゲーム感覚です。それとも団結への昂揚欲でしょうか‥答えの一つ一つは人それぞれ微妙に異なりますが、答えは決まっているのです。自分がその中のどれを請け負うかという違いがあるだけです。
 自分が作家になってオリジナルの戦争を考えてみれば明白です。
勝たせたい方をあらかじめ決めて描くわけです。その説得を後付で足して行くわけです。いろんな味付けがあるわけですが、結局の処、敵視させるためのモチベーションを維持してゆく感情がないと続かないわけです。
 続かないとそこから先がない‥そういう「恐怖」に煽られている‥それだけです。
恐怖をやっつけようとしてムキになっても勝敗などつきません。
 恐怖からは去るのみ。恐怖は捨てるのみ。それが、自分の思考や感情がその発端でしかないとわかればそうするしかないでしょう。

 そして、その先に保つべきモチベーションを発想できないがゆえに幸福は訪れない。いつまでも戦争よろしくな映像を見ながら、詰め込むことしかできないのです。
恐怖で一杯に詰め込んだ気持ちの拠り所を求めてわめき散らすぐらいしかできないのです。今度は俺がヒーローになってやる‥と言う具合にね。それだけです。
 絶望や恐怖から逃れたいという欲があれば幸福は訪れません。欺瞞や猜疑があればなおさらです。なぜなら、幸福にはそんな欲がないからです。

 今ここに存在するというそれだけの視点から、幸福であると思える感謝の気持ちにしか幸福は宿らないのです。
それが、至福には幸福が訪れると言われる波長同通そのものの見解なのです。
そこには恐怖からなる視点などどこにも存在しないのです。
ただし、慢性化してしまえば自ずと停滞は起こりますけどね。

 そこがわからなければ、政治と社会の空回りはいつまでも続く‥単純なカラクリですね。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:37 | Comment(0) | その他 | 更新情報をチェックする
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