福の神のツボとタイトルを読まれて何を思われたでしょうか?
まずは「感謝」と「ありがとう」とが挙がると思います。
しかし、神様にとって何が「ありがとう」なのでしょうか‥
神の教えの基本形として、これら感謝の姿が福そのものであるとすれば、福の神自らがそのようであらねば筋が通らない話になるのです。
ゆえにそこにツッコミを入れればこうなります。
「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」
いかが思われたでしょうか‥
それもこれも足下目線で世の中を見回せば、すべてが大木にしか見えません。
靴の先にカメラを取り付けるようなちょっとあやし気なアングル観ですが、そのぐらい下から周りを見渡せば、自然と上を見上げるしかありませんから、すべてが大木にしか映らないわけです。
そこに気がつけば、それこそが福の神のお得意な視線であると言えるのです。
「みなさんたいへん立派な方ばかりです。」‥なんてね♪
「ではなぜ、我々人間には、そうではない上から目線のような神像が植え付けられているのでしょうか?」
本日は、そこを哲学してみたいと思います。
{村社会}≒{封建社会}であるとき、弱い立場の者が不運にも強欲な長の傘下に置かれてしまったとき、何があろうとも申し立てることも聞き入れられず、長のご機嫌よろしくな一方的な言い分にさらされます。そこには希望など見あたらずに、泣き寝入りな人生があるだけかもしれません。
一方、{村社会}≒{合議制(民主主義)}であるとき、弱い立場の者は程度救いの手をさしのべられても宜しいように考えられているのがお互い様の世界観なわけです。
ところが、この構図の本質には、社会的な安定と不安定が絡むことを忘れてはなりません。
社会が安定すればするほど、本質において封建社会であろうと民主社会であろうと、格差は固まって行き、そこに築かれる体制的な癒着や馴れ合いは、どのように工夫をしようとも不本意な甘さを生じさせる要素にしかならないのです。
そして言わずとも、極端な不安定の場合でも同様の現象に転じます。
その反対に、不安定にさらされる要素が拭えない上での安定と不安定との適度な繰り返しであれば、協力し合うという必然性が「生きる」という直接的な問題として常に問いかかってくるわけです。その結果、合議制であることを必然とさせます。一人の知恵で追いつかなければそういうことです。
これら2つの要素を振り返ってみたとき、人間の意識の中で無意識に安定ばかりを求めるあまり、知らず知らずのうちに、自らが上から目線となり、体制主義的な長いものに巻かれるのが得策とする考えや、強い者に付くのが当たり前のような意識が根付いてしまっていると言えるのです。反対に、不安定すぎても同様です。
ゆえに、そこにおわす神は「良きに計らえ」とは言われるでしょうが、しくじれば実力主義な裁きを下す威厳の神像となるのです。
では、「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」とおっしゃるような神様はどうでしょうか‥
福の神の立場上、そんなことを直に言ってしまうと人間の学びにならないので、ポーカーフェイスを決め込んでいる事に他との差はないわけですが、福の神自ら日々そのような心懸けで生きているのがふつうであると、人間側でそう思えなければ人間は本当の意味で感謝を学んだとは言えないのです。
そして、安定よりも、幾分不安定を含んでいた方が、人間同士で上手く行くというのであれば、そちらの方を人間に与えるというのも福の神の知恵と見るべきでありましょう。
だからこそ、上手く行ったときは、人間もまた「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」と自らが福の神に通じた言葉を唱えることになって行くのが福の神のツボなのだと思います。
会社の社長で言えば、「今月もまた社員の皆様に十分な給与を出させていただき誠ありがとうございました。」‥みたいなところでしょうか。
しかしながら、言うは易く行うは難しです。
なにしろ人間はひねくれてしまうと、長いものに巻かれたいとも思いませんし、強い者に付きたいとも思いませんし、強くありたいとも思いませんし、感謝もくそもへったくれもありゃしません。放っておいてもらいたい世界観に出入りしてしまうのです。
そしてそれは誰しもに起こりうる人間としての性質です。
そこに恥じる必要はありません。安定と不安定の繰り返しに知恵ありとされているのであれば、それも然りだからです。最後の節目よろしくな気持ちのあり方としての感謝、その時同時に生じるであろう新たな視界の獲得‥そこにこそ福を求めるべきなのでしょう。
2010年05月16日
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