さて、小説創作に向かうにあたり、根本的な哲学問答が始まってしまいました。
仮に恋愛をテーマにしたいと思っているとします。恋愛は言うまでもなく基本です。この男女間の感情の様を否定して、それは電気信号の作用に過ぎないとヤボなことを言い出せば、人間道徳というものは根底から成り立たず、そんなことを頭から言い出す科学者はゾンビ同然です。
「それでも、巷にあふれた恋愛観は正しいのでしょうか?」
まぁ人それぞれですから正しいもくそもありません。自由にやればいい。
そういう見方が往々にしておおざっぱな感覚にあると思います。
ここを巷で語られる宇宙情報と照らし合わせてみたとき、宇宙規模で滅んでしまうような文明・文化に根付いていた恋愛論など信用に値するのでしょうか?
これは地球人の起源が宇宙にあり、その宇宙人の最果ての地が地球というカラクリであるのならば、地球人にも当てはまることです。
そして、その地球上でも行き詰まりが生じており、転ばぬ先の杖として実験が行われている地球に、因果から宇宙から来ているとしても(そう言われております)、成長は見られず、そこにある男女間に求められたバランスは何一つ向上など見せていないと言った驚愕動転の想いに更けてしまってもおかしくありません。
ちなみに、宇宙情報からは、彼らのある存在から見て、地球人の恋愛は「所有欲だ‥」という意見がでておりますが、さてさて、そんな彼らの恋愛観でさえ、その文明は滅びの危機を避けられずにいるのです。それが宇宙の実態だと言われております。
まぁ滅びの危機と言っても原因には様々な要素がありましょうが、そこにあるコアな部分としての恋愛観は正しいのでしょうか‥
もし、滅びてもかまわないほどの自由さをもって愛を語るのであれば、不毛に過ぎないわけですし、継続的な姿の維持が中身はどうあれ成り立ってゆくのであれば、それはそれで合格ラインに位置した恋愛観だと考えてもおかしくありません。
そして、この問いかけはそのままに、西洋人の自由気ままな恋愛観と古来から東洋に見られたお家の事情に土着した恋愛観の問答ともとれそうです。
ここで、作家的な視点から言えることは、本流と思われている恋愛観にも欠落した部分は必ず潜むものであり、何を押して何を下げるのかはそれこそ作家の見せ方の課題でしかない‥つまり、どのような恋愛観にも可能性を見いだそうとするのであれば、変態・異質・異端といわれるような恋愛形態でさえ、なんら恥じる必要など無いという態度も成り立つ‥ただし、それなりの主張が通るような見解がそこに見いだせているのかどうかが重要だと相成るわけです。
‥などとくくってしまえば、振り出しです。
「自由にやればいい+それなりの主張を見いだせ」‥うんぬんで、つまりおおざっぱなままです。まぁそもそも恋愛はそこが基本でありますから、逆から見れば、保証された恋愛形態など何一つ存在しないとなるわけです。ツインソウルとかなんとかもその範疇でありましょう。
そうであれば、実際問題としても、悲観的すぎるのも楽観的すぎるのも論外だと言えるわけです。パターンとしても当然でしょう。作家ならそんなキャラにはツッコミを入れるがごとく一悶着付けるのが筋というものなのですから‥
つまり、あるべき姿を自分の現実に持ち込むが如し恋愛を創造したいのであれば、自分のルールは自分以外の世界とは常に不一致であることを自覚した上で、理解を得るためのケアは常に欠かせないと‥そこに継続性や継続欲が伴わないのであれば、根本から見直すべきだ‥となるんだと思います。
とはいえ、この恋愛ケア第一論主義は、何かと相手優勢な意味合いを持ち、ストレスの溜まりやすい要素を抱えます。まぁ逆から見ればそこにストレスを抱えているうちは本物ではない‥それが愛だ‥となるのでしょうね。もちろん感性としてだと思います。
なにしろ世の中にはその逆のパターンも然りとして存在しておりますからね。
その時、文学=感性でしかないのであれば、そんな文学観ははっきり言って化石なのかもしれません。
化石の用は、化石として楽しめるというだけであり、そこに秘められた生命の神秘を空想できる点において勝るのでしょうが、現実としては‥既成概念にしかならない厄介者だという事になるのでしょう。
まさに既成概念・世俗概念だけで恋愛をしようとしているのか、それとも、自分たちなりの恋愛創造がそこに作用することを求めているのか、そのバランスが活力となるかならないかの境目なのでは‥と思います。
言うならば、そこにある恋愛創造に、すべてへのつながり意識が濃かったか薄かったかの疑問が投じられないかぎり、宇宙に飛び出してゆけるような地繋がりな恋愛論への飛躍などありえないと思う限りです。
具体的な事を申し上げれば、誰しもが恋愛をして結婚をして家庭を持ち、各々で居を構えたいと考えているのであれば、どうしてそこに生じてしまう物理的な限界を社会が真剣に議論し合わないのか!?‥です。
{持ち上がらない}={誰もそこまで真剣に恋愛を考えていない}という返答にしかなりません。そうであれば、不遇のやってくる確立がそれなりに高くあっても当たり前だとなるのです。
そのように、はじめから自分たちの恋愛創造を裏切っているのであれば、世の中の流れが好転するはずもなく、べったりと地べたを這いずるような段階から抜け出せないのが社会的な現状にしかあれない‥そのように斬ってしまっても差し支えないのです。そんな段階で文明を謳歌しようなどと誰が正気にあれるのでしょうか‥
そこにあるような総合的な恋愛創造は、先着順の勝ち誇ったような像にしか映らないはずです。ならば、嫉妬も有って当然です。そこから様々にこじれるのも当然です。そのようにしか自分たちで創造し合っていないのですから当然としか言いようがありません。
このような恋愛論は、好きとか嫌いとか、上手く行くとか行かないの気持ちの有様とか、そんな一般的な次元から問うものではありません。物理的な現実問題として、そこにある理解が競争でしかないという中身を問うて行くものです。
物理的と言っても、「特定の人は一人しかいませんよね‥」というような流れでもありません。特定の人の奪い合いみたいな話にしても、当事者同士の恋愛創造に勝ち誇るようなビジョンしかないのであれば、それもそれ以上の進展は望めないわけです。
そこにまた一般論を持ち出す必要もありません。当事者同士で納得できるスタイルであればそれもまた有りだということです。
その全体的な視野において、物理的な限度が伴い、なおかつ、その限度の許容を拡大できるような取り組みを社会全体で向き合い確認し合う習慣がないのであれば、お互いの恋愛創造も現実に作用してゆかない形にしかならないという話です。
まぁそこまで考えて恋愛をする気にはならないでしょうから、教育の視点として取り組んでしまうのも考え方の一つだと思います。
性教育をどうして行くのかを論ずる前に、そこのところの踏み込みがまるでないのはさもしい限りです。
翻って、特定の宇宙人にしてみれば、それぐらいは織り込み済みなはずです。
そして、地球人はまだまだ総意としてそこには至っていないと思います。
結論として、「宇宙情報の恋愛観は正しいのか?」に決着の知るよしはありませんが、方向性の確認をし合うぐらいの態度は社会現象になってほしいところです。
環境問題をとことん突き詰めてゆけば、「総合的な恋愛創造・家庭創造の可能性を引き上げるには?」に置き換わるのですからね。これは言い過ぎではありません。
2010年05月18日
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