1-3)改稿.2015/08/25...20100906...
> 人間こそ空気を読むべきである。
宇宙の響き‥自然の声‥
何も聞こえちゃいないかのような雑多で不可解な総合的な日常の有様。
そのアンバランスとも多様性とも言い難き混沌。
(‥所詮、美学だけで人は成り立たないのだろう)
しかし、活動した後の後始末ぐらいは心懸けるべきである。否、最優先とされるべきだ。
後始末を心懸けずに進み続ける社会の軋み。
日本人の平均は世界に比べれば幾分まともかもしれないが、所詮は資本主義に毒された同じムジナ。
資本主義の中で生きて行くことの空気は読めても、天地人の如何なるかを問うべき空気は読めず‥
(‥というより、諦めてはいまいか?)
‥生きることは諦めていないのに、皆で考え、其をまとめることを諦めている。
なんという矛盾、なんという不手際。
1-3)1
> そもそも資本主義は、皆の考えをまとめて前進しようなんて腹にはない。
‥資本の論理で以て、人類を縛り付けるためだけにある。
儲けることの努力を要求し、合理化を見せ合うことで、なぜかそれが機能を見せている。
そして誰しもは、他人より多くの割り当てを得るのになぜか一生懸命にある。
‥成果の順番
分配を決める権利を持つ者が最優先で一番だ。それが成果を担う上での大前提とされている。
「元手が無いと始まらない。」不思議と皆それにうなずくばかりだ。
儲かる仕事を引っ張ってきた者は二番だ。でもそれが必ずしも成功するとは限らない。
そこで、成功するように導く手腕を奮いサポートできた者が三番だ。
さらに、その脇でコストを下げて利益貢献した者は四番という具合にある。
(ひたすらに命令を受けるだけの使いパシリや作業回り要因はさほど重要視されていない)
(そんな中でも‥秩序の安定に貢献するボディガード役は、程度高待遇されている。)
> はっきり言っておこう。そこにあるのは空気ではない毒だ。
> 毒という空気を読んでまで、その得体の知れなさに応える必要はない。
人は毒に侵され、いつしか毒を空気と言い合うようになった。
だから本来の空気が読めなくなった。
最初は、いくらでも席が用意されているように見えていた。
宇宙がそれを用意していた。自然がそれを用意していた。
そうだ。人は天地と一体の気持ちのままだった。
だから、どこの空気も常に一様で、皆の息は通っていた。
しかしいつしか‥席の数が一つ減りまた一つと減った。
そしてついに、頂上の上の方の席だけがリッチに見え出した。
皆はそれを人智の勝利と叫んだ。
それを高々と仰ぎ、言われるままにした方が実入りが良いように思うようになった。
昔ながらの足取りをかなぐり捨てるようになった。
‥それ以降だった。
最初の頃は周りにはいくつもの表情があったのに
いつの間にか、席にありつける顔だけが人の顔だと言わんばかりになった。
合言葉が科学的合理化の時代になると、席の数はますます減った。
‥それが正しさと言うよりは、誰もは、自由と平等を培う上での選択支と考えるようになった。
生きて行くためと信じて金融競争を始めると、世界は途端に相生相殺の地獄絵図と化した。
どこかがコケれば、みんなでコケた。回転回転、大回転し続ける事が正しさだった。
‥そう言い合い、言い聞かせつつも‥いつも歯車が止まることに誰しもは怯えていた。
そこにある回転とは人の都合ばかりだった。
昔ながらに懐かしい天地の声は、なかなかに織り込まれることがなかった。
「織り込んでもらいたくば、科学的根拠を示せ。検討はその後だ。」
同じ言葉が幾度も幾度も繰り返されては、本当の声を‥掻き消すばかりだった。
1-3)2
> 今時の暮らしには、人としての理想像がない。
その代わりに、自由に生きるのがすべてだとの解釈だけが先行している。
・いつでも天下を狙えるという信長型の自由観。
・誰かの土台にヨイショして豪華絢爛を貪るばかりの秀吉型の自由観。
・皆で一致協力して得る安泰という家康型の自由観。
‥自由観を例えれば、たいてい上の三つだ。
自由だから好きな自由観を選べば好い‥そう思われている。
それにしたって、たかだか‥この三つに区分できる自由観がせいぜいなのだ。
人の自由への希求とは、そんな程度なのだろうか?
否、そんな程度だからこそ、目の前にその程度が転がっている次第か‥
> 太古の人々は、無理に形にしなければならない自由を望んでいたわけではない。
「あるがままに、日々を受け入れて立つ」‥それが本来的な欲求だった。
生きるのに困らない程度の生活観。それだけだった。
しかしそんな話し合いは、明日の支払いの前にうっちゃられて久しい。
所詮は、実力のある者らの意見交換。それだけがまかり通るようになった世界。
だからこそ、誰しもが実力を欲した。
スキルスキルとその向こうに自由が待っているものと思い込んだ。
取り組みとしてはフェアーに見えていた。しかし、新しい取り組みも瞬く間に満席になった。
オンリーワンにスキルなど無い。あるのはリスクと己の生き様だけである。
地味な積み重ねなんぞ、誰しもがしていて普通だ。
そこに差があるのなら其は己との対峙の差だけにあろう。
どれだけ勝ったとか、いくら儲かったとか‥そんな差が何を示すというのか?
1-3)3
> 自由と思しき甘美に酔いしれ、誰しもが原点を見失っている。
流れが変わるように見えても、すぐに元に戻っている。
すべては効率とされ、不採算部門も後片付けも何もかも外発注の他者任せだ。
ついには
お客様自身にやってもらうのが一番になってきた。
市民に直に担ってもらうのが一番になってきた。
> 「じゃ、仕事って何?」「給与って何?」「お代って何?」
そこには、運営する側に優先権があるとした容認だけがある。
管理する側の主体性は、それを利用する者の主体性より優位に位置するとした理念があるだけだ。
ならば、
自分たちの足下の大地に問うべきであろう。
雨の恵みをもたらす天に問うべきであろう。
光と熱をもたらす太陽に問うべきであろう。
その他諸々とした多くの恵みたちに問うべきであろう。
‥自然界の循環を司る多くの存在たちにこそ優先権があると問うべきだ。
どこぞの資本を翳してばかりの支配者様の言い分など糞食らえなのだ。
人間様の自由権にしても同じである。
市場原理を楯にしたクレーマー様だって二の次だ。
「人間こそ空気読め!!」