2010年09月18日

【夢考察】テレパシーは脳をモニターにする

1-2)改稿.2015/08/21...20100918...

> 何日か前、へんな夢を見た。


 夢の内容はすっかり忘れてしまったが
 頭頂に電気的な刺激が伴ったテレパシーのような感覚だけははっきりと覚えている。

 テレパシーのようなその内容は
 “Bravo Baby!、Bravo Baby!、Bravo Baby!‥”
 ‥を耳にタコができるぐらいに繰り返して来た。否、頭にタコかな。

 その感覚が実に不思議で

 人体のツボで言う所の頭頂から脳下垂体に通じた経路が
 まるでアンテナの導線になったかのように、電気的なシビレでジンジンした。
 ‥頭頂あたりが、スピーカーになったかのように、「ブラボーベィベー」と繰り返し聞こえた。


 そんなふうに聞こえたのははじめてだ。


 ‥たまに妄想的に、耳に聞こえたり、頭に聞こえたりはある。
 といっても、空耳のような程度で一瞬だ。それにあまり好いメッセージに無かったりする。

 しかしこのときは違った。
 目覚めの状態に向かっていたせいか、尚更に良く覚えていたわけだが、
 目が覚める感覚が強まるに従って、そのスピーカーの感覚も強まったのを覚えている。
 その強制的な刺激のせいで目が覚めたと言ってもいい。通信のような何かに思えた。


> それにしても、“Bravo Baby”って、どういうニュアンスなのだろうか‥(気になる)



1-2)1

> ‥テレパシーってこんな感じなんだろうか?


 まぁ、睡眠時と覚醒時との違いは有ると思うが
 頭に直に言語的に伝わる感覚というのは、夢の中で会話を交わすのとはまるで違う。
 ‥それはもう、強制的に電話の音しか聞こえないように、頭の中で響いていた。

 (あまりべたにそんなのが繰り返されては、こちらとしてはノイローゼになりそうだ)
 (まぁ慣れちまえば、どってことないのだろうが、それも相手次第かなと)


> しかし


 よくよく考えてみれば、音声に変換するとそんな感じになるだけで
 夢という中身に、映像を流し込めば、それは映像でのメッセージという事になる。

 この時の音声に、映像は全く付いていなかったので、イメージとしては空白だった。
 ‥真っ白いスクリーンが見えているだけだった。

 つまり、映像を乗せるなんて事は雑作もないということになる。

 その時、脳は思考をするだけのものではなく
 明らかにモニターとしての機能に切り替わっている。
 ‥CPUでもなく、記憶装置でもなく、モニターになるんだ。
 ‥そしてそれを見ている私が居る。



1-2)2

 見ている映像が、夢だろうとメッセージだろうと操作だろうと
 自分の記憶に刻んでしまうのだから、
 対象物が何であったかを正確に把握できないというのでは、自我の交錯を起こしかねない。


> でも


 夢でのなんらかの自身の選択も自分のした行為になるし、見ているだけでも同じことだ。
 妄想でもそうだし、現実でもそうだ。
 相手の体験をリアル映像で見せられたにしても、何をどう受け止めるかが私になる。
 自分の立ち位置が違うというだけの差の中にも、自分の思考や感情が行為として蓄積される。

 そして

 貪るように他人の心をスキャンすればするほど
 自己意識の拡大を味わうのと同義になるが、実的経験が伴わない事から
 ‥自ずと自身の中に、おあずけな人格を有することになる。

 見ているだけで行動しない。反応できない。そんな空気だけの平衡感覚。

 ‥電話一本、ボタン一つで命令できてしまえるのもそれと同じで
 現実感をもたらさない。


> でも、五感にまでその感覚が届くとなると‥それは、強制的に自身の体験そのものになる
> 自分の立ち位置がどうとか、全く関係ない


 ならば、好き嫌いをハッキリとしてみせることは、自我を保つ上で欠かせない要素になる。

 耐えられないのなら無理する必要はない。好きなものは好き、嫌いな物は嫌いでOKだ。
 ‥ただし、好き嫌いばかりしていては、自我の拡大をしても受動率が高い‥ということになる。
 ‥そこに体験としての実感を求めないのなら、どうしたって嫌いなことに実感は得られまい。
 ‥それは即ち、対処を得られないパターンに通ずる。そういう私を選んでしまうということだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:47 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする
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