1-1)改稿.2015/08/21...20100925...
> [一色まこと]ピアノの森を読んでみた。
‥話の途中で完結していなかったのは残念だが
ピアニストの卵たちのバトルをマンガで表現すると、
「あーなるのか‥」という一つの形に奇妙な共感を覚えた。
音を絵で表現できないから、自ずと音楽家の生き様を描かざるを得ない。
それもショパンコンクールというきわめて限定された世界観での生き様を織り込まなければならない。
一色まことは大胆なマンガ家だと思った。
‥しかも、ショパンコンクールに参加できる年齢は17歳〜25歳とか
たかだか17歳〜25歳の年齢でどれだけの人生観を織りなせるというのだろうか?
(ある意味、そこにあるのは天才という響きだけで人間性なんか二の次で好いはず)
(でもまぁ、公演という身なりをキチンとできるかどうかは人格上の前提でもある)
(人生の中でひねくれている暇がどれだけあるのかにも、許容の幅が限られる)
(‥どんなにキャラを立てたくも、ショパンコンクールという制限上、嫌でもキャラはかぶる)
> 絵や言葉ではなんとでも言えるかもしれないが、それがアニメ化されていると聞く
楽譜が4/4拍子のところを4000/4000拍子にでも細かく置きなおさないでもしない限り、
デジタルでの聞き比べに、キャラごとの個性なんか得られないと思う。
人の演奏には所詮、音長による個人差があるのだから‥物理的に違いを得ようとすればそれぐらいだ。
実際、ボーカロイドに歌を歌わせようとすると
節の出だしや伸びに、楽譜とのズレをテクニックとしてやらないと
機械っぽく聴こえるばかりでおもしろくも何ともない。
ただし、あまりかけ離れてばかりいても、全体があやふやになってくる。
実際にやってみても、聴きながらでないと調整できないし、イメージが先にないと崩れるばかりだ。
ピアニストで言えば、そこは楽譜を見て弾くなんてものではなく、身体が覚えている感覚か‥
それでも、人間が4000/4000拍子なんて楽譜を渡されても理解不能だと思う。
機械に渡せば別だろうが、常識的にそんなスコアを置けるツールからしてない。
「そこを制作サイドはわかっているのだろうか?」
1-1)1
> 音を文字&絵に表現できないから、キャラクターの人生をマンガにして見せざるを得ない。
それが演出上のキャラの弾いた音色として受け止められる。
つまり、自らの人生を否定していれば、そのようにしか伝わらないということになる。
‥表現としては、かなり大胆な取り組みだ。
そもそも
大舞台を前に、自らの自信をどこから得てくるのかを考えれば、
才能でも努力でもない、内面に在る。
才能の差も努力の差も、大舞台の中では目くそ鼻くそだ。
経験の差はそれを補うかもしれないが、
自分より鮮烈な個性を前にして、常に冷静でいられるかというと話は別だ。
‥そして最大の個性の持ち主は観客、否、舞台でもある。
> 本来的な意味で、自分に自信を持つことは、他者より上か下かを意味しない。
自分のすべてを受け入れて認めれば認めるほどに
相互的に他者の良さも拙さも実感してしまうのが本質としてある。
もし、それの意味がわからないというのなら、まだまだというだけの事だ。
わからないというのなら、他者の演奏に感銘してしまえば、自分の立ち位置を見失うことになる。
なにしろ人はすぐに他者の良い所を取り入れたくなってしまう性分を持つ‥謂わば欲だ。
‥女性が抱く美貌への欲は良い例だ。
そこに渦巻くであろう‥己が自信を揺さぶらんとする瓦解を断ち切れるかどうかを、
人生を振り返り見せながら、音楽を競う題材上にオーバーラップさせることで
音として主観できてしまえるという点には、正直‥新鮮味を覚えた。
(‥尤も、主人公の如く描かない限り各奏者の気持ちが伝わりにくい点では、常にマイナスだ)
(‥其を審査する側にしても同様で、結局は親近感の距離が得られるかどうかでもある)
(‥ツッコんだ物言いをすれば、好きの盲目を読者にインプットできるかどうかでもある)