1-2)改稿.2015/08/21...20100927...
> [一色まこと]花田少年史を読んでみました。
このマンガはアニメにも映画にもなっているとの事ですが、花田のはの字も存じておりませんでした。
霊絡みの日常些末を、メルヘンチックに見せてしまうセンスに脱帽でーす。
‥楽しく厳しく公平に
‥成仏できるできないに対しても公平に
「自分のせいで自分との関係で成仏できない者が居るのに、自分だけが成仏できるわけがない」
三巻収録25話〜27話の下りには驚きました。
1-2)1
> 話を読み進めるにつれて
‥成仏できない死霊や成仏できそうにない生き霊の
言い分が如何に身勝手か、その辺りの考えを新たにしました。
一人や二人を相手にしている話の始めのうちは、人助けの気持ちにも賛同できました。
何ら問題無いように感じられます。
でも
‥あっという間に何十何百ともわからない相手が
ぞろぞろと花田一路を取り囲んでいるカットを何度となく見てしまえば
そんな気持ちもすっ飛びます。
「ああ、霊に囲まれるってこう言うことだったのか‥」
「‥確かに腐っている」
「‥自立がない」そう、感想を抱いてしまったのです。
> そうだったのです。
生きているうちに、自覚に裏付けられた人生観が身に付いていないと、死んでも同じ事なんです。
自覚もなければ、自立もないんです。死んでからでは遅いって事だったんです。
自分で判断できない=死んでも他人に頼り切りという事です。
‥それがすべてダメというわけではなく
自分が生きている時に無関心だったくせに、死んでから生きてる人を頼るのは
どう考えてもお門違いでしょう。
‥そこを理解できない時点で、どう考えたって見苦しいとして扱わざるを得ません。
‥そこに気がつけるだけの意識を持てるかどうかです。
(死んだことに混乱していては、尚のこと難しくなるのは言うまでもありません)
人としてどう生きたかよりも、
霊としての責任、霊としての後始末、霊としての自覚の方が
あの世に帰るには重要視されている・・・
‥そんなニュアンスが、「花田少年史」の世界観からは見て取れます。
1-2)2
> 花田一路に取り巻く霊たちを見て
「人霊としてなっちゃいねぇー」‥と、言い捨ててしまうのは簡単ですが、
大抵この手のジャンルでは、恐怖と迷信の強調表現が前面に押し出されがちになることから
「人霊としてなっちゃいねぇー」なんて感想を持つことはまずありません。
その点、花田少年史の描かれ方は、
死霊の言い分も、生き霊の言い分も、
日常的な生活観の延長で描かれていることから、
化け物、腰抜け、意気地なしなどの言葉に隠れてしまいがちだった部分が
‥鮮明に描き出されて露わになっています。
> ‥個人的なことを述べれば
今まで、チャネリング情報等で行き着く所の
神道の神々のうんちくをさんざん学んでおりましたが
それでも、どこか腑に落ちなかった現実というのがそこに描かれていたわけです。
‥霊が見えるとか‥霊と交信できるとか
そんな器用な能力がなかったからこそピンと来ていない部分だったのだと改めて思い知らされました。
現実感のある絵で見せられて、はじめて一目瞭然の理解が得られた思いです。
> ‥取り憑く方の事情にしても
コメディー調&日常にありがちな内容に置き換えて見るというだけで、
成仏できない理由も、各人それぞれの人生の成り行きで生じているんだなぁ‥と、
改めて認知することができます。
そこでは、天使と悪魔の世界観に見られがちだった絶対善・絶対悪の概念が不要です。
ノンフィクションであれば、細かい諸事情を思い浮かべて身構えてしまう所ですが、
花田少年史のような表現であれば、難しく考えることの余計を思い知るばかりです。