2011年10月16日

新しい食文化の定義とは

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 火・水・塩・食材、この四つは料理に欠かせない四大要素となるが、そこから展開される食文化がどうのように展開しようと、その調理法や技法には大した変化がない。
 洗う、捌く、振りかける、焼く、煮る、蒸す、発酵、揉む、漬ける、炒る、炒める、揚げる、凍らす、冷やす、搾る、握る、盛る、振り払う、撹拌、練る‥‥
 近年では、器具の開発により爆発させるなんて言うのも見られるが、調理器具の変化がもたらすのは、料理そのものの変化というよりも、人の側の変化であり、食文化のそれ自体のバリエーションをもたらすものではない。

 注目すべきは、あくまで風味のバリエーションである。

 ただし、新しい味を追求してみた所で、それは新しい料理かもしれないが、それをもって新しい食文化という程の位置を即座に見いだすかというと決してそうとは言えない。
 そこには明らかに基本的な概念がある。ならばその概念を先回りして理解しておけば、新しい食文化の創造も得やすくなると言うものだろう。


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 そこで注目すべきは、料理法の一つとして炒めると揚げるの捉え方である。

 炒めると揚げるは、食用油脂を前提とする。
 つまり、脂や脂の使い方を発展させたスタイルがそこにあることがわかる。
 このように、ある食材をベースに用いる事で、食文化と呼べる形が形成されていると考えるのが無理のない捉え方と言えるだろう。

 そうであれば、トマトをベースにした料理がイタリアンだし、香辛料をふんだんに使うことを前提にしているのがカリーだし、炎と油脂を効果的に用いるのが中華だし、清水を中心に素材そのものの持ち味を生かすための味噌や醤油の旨味を活用するのを和風と言っているにすぎないということが分かるだろう。


 そういう意味からすれば、発酵は、何を発酵させるかによって様々なバリエーションをもたらせている点が独特であり、それだけで食文化を彩らせる変化に富んでいる。
 その良い例がお酒である。
 ただし不思議なことに、お酒と言えどそこにあるバリエーションは、その土地々々の食生活に溶け込んで支持され今に到るわけで、その土地の食事と調和した特性を見いだしている。
 そういう食文化の特徴を鑑みれば、発酵だけを主とした食文化の創出は、順序を違えた選択に陥りやすい一面を有していると言えるだろう。

 例えば納豆であるが、納豆が先か、白飯が先かという話ともなれば、白飯があったればこそ納豆の食文化は根付いたと解釈すべき所であり、納豆を先にして、何かに置き換えてみるような商品開発を連想するような視点ではなかなか定着しなかったとすべきとなる。
 これはどことなく、ウリのない料理屋に客が集まり難いのに似ている。一般に料理では、どんな料理であろうと好き嫌いの好みが生ずる。納豆であればそこは特にそうだろう。
 だからウリのない料理屋とは、一つの物でさえ、より美味に仕立て上げる能力が低いと判断されているということになる。
 そのように、こうして食べると美味という共感を人々が求めるにはわけがある。
 こうして食べたいの共感の裏には、昔であれば、その土地で採れる物だけを口にするしかなかったのだから、よりおいしく食べたいという地域住民の共通した心理が土台になっていると言えるのだ。
 そして今の時代であれば、何を主に食しているかで、その求める所が違っていると言えるだろう。

 ゆえに酒の味だけをどんなに弄ってみた所で、それに見合った酒の肴を掘り出してセットで紹介でもしなければ、地酒の新規創出などと言うはなかなかに根付く所がないと言えるのだ。
 つまり、発酵だけの味をどんなに弄ってみた所で、そこに集まる需要は飲んべえさんたちの酒浸り発想にしかあれていないマニアックな酒ができあがるばかりで、新しい食文化の創出には到らないのである。



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 さて、そうは言うものの、一つの食材にただ注目してみた所で全体に波及するようなインパクトを見いだすことは厳しいだろう。

 例えば、こんにゃく芋を挙げてみよう。誰がこんにゃく芋と灰を混ぜてコンニャクを考え出したのだろうか。
 ところてんの原材料として知られるテングサにしてもそうだ。
 誰が酢を加えて煮込むことでその成分である寒天を抽出させる事を見つけたのだろうか。そもそもにして江戸時代には酢などと言うものはまだ一般には普及してなかったのだ。代用としてあったと言えば梅酢だろう。その梅を梅干しとして食べられるようにした工夫がなければ、ところてんに到るまでのテングサ利用もなかったと考えて良い。

 このように、一つの食材だけに注目してみた所で、一つの食文化にまで届くかどうかは定かではないことがよく分かるだろう。


> えのき氷という食材を知っているだろうか?

 なんでもエノキの売り上げを伸ばすための加工で、エノキをミキサーに掛けてどろどろにした状態の物を新しい調味料として使うと美味になるという話だ。
 ただし、腐敗しやすいために凍らせることで対応しているという。

 そしてヒントはそんな所にあるのかも知れない。
 腐敗しやすいのであれば、逆に納豆菌の菌床に用いる事も可能ではないのだろうか?

 納豆菌が先に住処にしている場所に雑菌は近寄らないという‥それが考えのヒントではあるが、当然の予想として、納豆菌のもたらす繁殖の結果、エノキのどろどろは納豆菌のネバネバに変化を遂げることになりそうだ。
 であれば、豆もないのに納豆のネバネバのお化けみたいな汁のできあがりである。上手いか不味いかどんな塩梅になるかはともかく、納豆菌の大量生産の在り方として一つの発見がされたとなるかもしれない。しかも食材として用いられる状態にあるともなれば、画期的なのではあるまいか。
 そうでなくとも、今や納豆菌は天然の防虫剤としても利用されている。そちらに転用できれば、売れ残ったとしても再利用が可能である。

 ‥とまぁそんな発想もありだろう。


> では、ミドリムシはどうだろうか?

 ミドリムシを食材にしようとする試みをそれだけで見ていると、どうしても「?」が付いてしまう所だと思う。
 ならば、土壌改良の材料にしてみるとか、家畜や熱帯魚のエサに用いてみるとか、ミドリムシを直接食べるのではなく、間接的に口にするという発想の転換もありだと思う。
 発想をさらに捻れば、ミドリムシの液体に漬けるという考え方もできる。ミドリムシと何かを組み合わせた液体か何かでもいいだろう。ミドリムシをペースト状にした物を用いるという手も考えられる。

 とまぁ、別にミドリムシでなくともいいわけだが、目新しい所に注目すれば、そんな考えも巡るというわけである。

 そもそもにして、人々が一斉に肉食をしなくなった世界を想像してみるに、なんらかの食文化の創出は望まれるのだから、否、むしろそれがなくては始まるわけがない。
 だから、そんな途方もない視点で考えてみるのも好いと思う。



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 ちなみに肉食を止めると、今まで気にもならなかった肉の臭いが、獣臭く感じられるようになる。牛、豚、鳥の順で獣臭さを感じる。ここまで来ると、不思議とそれほどに食してみたいとは思わないものだ。それは多分、魚嫌いな人の言い分とほとんど同じなのだろう。

 そして不思議なことに、体の中の明らかな変化に気が付くことになる。それが何かは個人差があると思うが、少なくともオヤジ臭いの最たる原因が、酒と煙草にあるというぐらいの直感は芽生えるだろう。
 その直感はさらに、加齢臭が肉食のしすぎから来る現象である事を予感させるだろう。特に日本人の場合であれば、DNA的な要素が絡むと思われる。
 まぁここはあくまで予感だから、それに従うかどうかはその人の判断だ。

 あえて一つの裏付けを挙げておけば、こんな話がある。
 肉もたまに食すけど普段はほとんど口にしないとある原住民暮らしの種族が、肉を食いたくなった西洋人(滞在旅行者)に対して抱いた鼻感想とは、獣臭いから一緒に狩りはできないである。(※獲物がその気配を察知して逃げてしまうから‥)それが何を物語るかは明らかだろう。
 分かる者には分かるし、分からない者には縁のない話だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:49 | Comment(0) | 目の付け所をナス | 更新情報をチェックする
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